国宝 不動院金堂(ふどういんこんどう)
前のページにもどる_▲



名称 不動院金堂(ふどういんこんどう)一棟
指定年月日 昭和33年2月8日
概要 桁行三間、梁間四間、一重、裳階付、入母屋造柿葺
所在地 広島市東区牛田新町三丁目4-9

不動院の盛衰


 一説によれば太田川沿いの牛田にある不動院は、かつて安芸安国寺とも呼ばれる大寺院でした。
 南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が戦没者の霊を慰めるため、諸国に安国寺を建立した折、安芸国ではここに安国寺が置かれ、銀山城主武田氏の保護のもとで栄えました。しかし、武田氏の滅亡とともに寺運も傾き、一時は本尊の薬師如来もわら葺の小屋の中でようやく雨露をしのぐ状態であったと伝えられています。
 これを再興したのは毛利氏の使僧として戦国の世を生きた恵瓊(えけい)です。彼は、すぐれた判断力と行動力を備えた人物で、後には豊臣秀吉の信任を得て、彼の側近としても活躍しました。恵瓊は慶長5年(1600)までの約30年間、安国寺の住持を務め、その間に寺内の建造物のほとんどを建立、再建して整備しています。安国寺が中央の大寺院にも劣らぬ勢いを持つ大寺となったのも、この恵瓊の力といえるでしょう。
 しかし恵瓊は、関ヶ原の戦の後、西軍の首謀者の一人として処刑され、広島藩主毛利氏も萩へ移されます。空寺となった安国寺には、新しい藩主福島正則の祈願師であった宥珍(ゆうちん)が入り、それまでの臨済宗から真言宗に改めて、本尊を不動明王としました。以来、寺の名も不動院と呼ばれるようになり、現在に至っています。

山口から移設された金堂

 不動院の中心となる金堂は、大内義隆が周防国山口に建立した一堂を、恵瓊がここに移したものと伝えられています。天井に描かれた天女と龍の絵に「天文九庚子年(1540)・・・」と書き入れられていることから、おそらくその頃に建てられたものでしょう。
 この金堂は、現在国内に残っている禅宗様の仏殿の中では最大規模のものです。海老虹梁、大瓶束の彫刻や、軒下の組物など細部も巧みにできていて、雄大な中にも繊細さをうかがわせる建物です。また、正面一間通りが吹放しになっていること、内陣の鏡天井が前後二つに分かれていることなど、他の禅宗様仏殿では見られない特徴も備えています。

「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
※当サイトの文章・画像等の無断転用を禁じます。
前のページにもどる)(広島市全域へ戻る) 

財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課 tel/082-568-6511 fax/082-568-6513
Copyright(C)2005 Hiroshima City Culture Foundation. All rights reserved.