県史跡
比治山貝塚(ひじやまかいづか)
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発掘風景(昭和36年当時)
名称 比治山貝塚(ひじやまかいづか)
指定年月日 昭和25年3月22日
所在地 南区比治山本町

 比治山南麓に貝塚が存在することは、大正時代から知られていましたが、実際に多数の遺物が出土したのは、昭和7年の軍用工事中のことでした。戦後になって行われた本格的な発堀調査によっていろいろなことがわかりました。
 貝塚は三つの貝層と、その下の土器などを含む層から成り立っていました。最下層の出土品が最も古いもので、そこから出てきた縄文土器には、縄目や渦巻の文様を施したり、口に刻み目をつけたものが多く、縄文時代後期に作られたものと考えられます。これに対し、上部の貝層から出土した土器は、文様がなく、器の内外ともによく磨かれて光沢を放つ縄文時代晩期のものです。つまりこの貝塚は、縄文時代後期から晩期にかけてできたのでしょう。


 また、石錘(漁網に付けるおもり)、石鏃(やじり)、石匙(動物の皮を剥ぐ道具)などの石器も出土しています。これらは四国や山口県東部で産出する安山岩から作られており、当時その地方と交易があったことをうかがわせます。
 さて、貝塚の主体となる貝ですが、これには約40種類のものが見られました。最も多いのがハマグリで全体の70%を占め、これにカキ、アサリ、シオフキ、カガミガイ、ハイガイ、アカニシなどが続いています。おもしろいことに、塩分の多いところに棲息するアサリは上層になるにつれて減少し、河口など淡水の入り込むところに多く棲むハイガイは逆に増えています。これは、貝塚ができ始めた頃、比治山のまわりは完全な海だったものが、太田川が運んでくる土砂によって陸続きに近い状態になっていったためでしょう。また貝に混じってわずかですが、シカの骨や魚の骨も見られます。
 このように比治山貝塚を詳しく調べていくと、大昔、この周辺で魚を取り、貝を拾い、そして弓矢で狩りを行って生活していた人々の姿が浮かび上がってきます。貝塚が縄文時代晩期で途切れているのは、稲作技術が伝わるとともに、それに適した土地を求めて彼らが移動していったためだと考えられています。


「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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