県史跡
熊谷氏の遺跡(くまがいしのいせき)
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伊勢が坪城跡)
名称 熊谷氏の遺跡(くまがいしのいせき)
指定年月日 昭和45年1月30日
所在地 1.伊勢が坪城跡 安佐北区大林町
2.高松城跡 安佐北区可部町下町屋(高松山海抜250m以上)
3.土居屋敷跡 安佐北三入一丁目
4.菩提所観音寺跡 安佐北区三入一丁目

 熊谷氏は、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)から移り住んだ一族で、源平合戦で勇名をはせた熊谷直実の子孫にあたります。直実の孫である直国は、承久の乱(1221)の時に近江国勢多(滋賀県)で討ち死にし、その功によって鎌倉幕府から、その子直時に三入荘の地頭職が与えられたのです。
 三入荘は、現在の大林、桐原、上町屋、下町屋一帯にわたる荘園でした。直時は貞応元年(1222)に、ここへ入り、最初大林に伊勢が坪城を築いて本拠としましたが、後には熊谷氏の本拠は高松山城に移されました。
 地頭職についた熊谷氏は、長く安芸国守護の武田氏と深い結び付きを保っていましたが、大内氏のすすめや毛利氏の積極的な働きかけの結果、遅くとも天文2年(1533)頃には武田氏を離れ、毛利氏に服属しました。以来、終始毛利氏のために活躍し、毛利氏興隆の柱となります。
 後に毛利氏は関が原の合戦(1600)に敗れ、長門国萩(山口県萩市)に移封されますが、熊谷氏もこれに従い、共に萩へ移りました。


1.伊勢が坪城跡(いせがつぼじょうせき)


  この城は、三入荘の北端にある高さ30mあまりの小さな丘の上に築かれていました。城郭は、根之谷川に向かって階段状に並ぶ3つの郭(くるわ)とその反対方向にあるひとつの郭と空堀(からぼり)で構成されています。また城の前面を流れる根之谷川も、天然の堀として利用したようです。
 ここは日常の政務を行う「居屋敷」としても使われており、高松城に移った後は、隠居所として利用されました。

2.高松城跡(たかまつじょうせき)

  この城は展望がよく、地形も険しい標高339mの高松山の山頂一帯に築かれています。熊谷氏は、もともとあった城を大規模に改築して入城したようですが、その時期については、熊谷氏の力が充実した戦国時代初期とする説が最も有力です。そして天正19年(1591)、毛利輝元に従って広島城下に移るまで、ここが熊谷氏の本拠となりました。
 城郭は、山頂近くに「本丸」「二の丸」「馬場」「与助の丸」「明堂寺」などと呼ばれる規模の大きい郭が配置されており、東、西、南の尾根には、階段状に数多くの郭が残されています。

3.土居屋敷跡(どいやしきあと)

  土居という地名は、中世の有力な豪族の屋敷を中心とした集落があったことを物語るものです。高松山北西の麓の土居にある、高さ1.5m前後の苔むした石垣は、熊谷氏が日常の政務をとっていたと言われる屋敷跡で、高松城へ移ってまもなく、高直が建てたと伝えられています。巨石を使用した石垣は、L字型に東西44m南北38mにわたって残り、門の跡と思われる「切りかけ」も見られます。
 この屋敷跡は、中世の豪族のものとしては、山県郡大朝町の吉川氏の館跡(国史跡)と並ぶ貴重なものです。

4.菩提所観音寺跡(ぼだいしょかんのんじあと)

  根之谷川を挟んで土居屋敷跡と向かい合うような位置に、熊谷氏の菩提所観音寺跡があります。かつては大寺院であったと言いますが、熊谷氏が安芸国を離れたことなどもあって衰退し、今では二間(約3.6m)四方の小さな観音堂と井戸を残すのみです。堂内には、熊谷氏の紋(穂矢)を刻んだ須弥壇(しゅみだん)があります。
 また、すぐ南には40基余りの五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並ぶ墓地が残っています。関が原の戦い(1600)後、毛利氏に従って萩に移った熊谷氏は、その後も時々家臣をここに墓参させていたと伝えられています。


「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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