市指定重要有形文化財 
旧陸軍糧秣支廠建物(きゅうりくぐんりょうまつししょうたてもの)
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明治時代の洋風れんが建築


  人家の立ち並ぶ町中で、異国的な雰囲気を漂わせるこの赤れんが造りの建物は、明治44年(1911)に完成した旧陸軍糧秣支廠のかんづめ工場の一部です。昭和59年に改修され、現在は広島市郷土資料館として利用されていますが、外壁は当時のものがほとんどそのまま保存されており、屋根も鉄板を銅板に葺き替えていますが、当初の工法である「瓦棒葺(かわらぼうぶき)」がほぼ忠実に再現されています。当時の洋風れんが建築の技法を知るうえでも、大変貴重な建物です。
 この建物の特徴は、外面の意匠の巧みさにあります。南面の壁の外側には、れんが2枚分せり出した控壁(ひかえかべ)が連なり、また中央入口部分の庇は、三角形の破風を持つ切妻(きりつま)造りになっています。壁の上端では、3段の迫持を作って雨樋を収めるほか、中央上部には角支柱上に球をおいた軒飾りを4本立てるなど、様々の工夫が凝らされています。
名称 旧陸軍糧秣支廠建物(きゅうりくぐんりょうまつししょうたてもの)
指定年月日 昭和60年4月22日
概要 れんが及び鉄筋コンクリート造、建築面積1,469m2、二階建、玄関ポーチ付、銅板葺(但し、指定は外壁、屋根、庇部分)
所在地 南区宇品御幸二丁目6-20

軍事都市としての発展


  近代における広島の都市としての発展は、軍都としての性格を抜きにしては語ることができません。広島には明治6年(1873)にすでに陸軍の鎮台(ちんだい)が置かれていましたが、明治27年(1894)の日清戦争の開戦とともに、軍事拠点としての重要性が注目され始めます。というのも、宇品港が整備され、山陽鉄道によって東京と結ばれていた広島には、軍需物資や兵員を集め、大陸へ送り出す拠点としての条件が整っていたからです。
 これをきっかけに、広島には数々の軍事施設が建設されました。その手始めとなったのは、明治31年(1898)、牛田(東区)に設置された軍用水道でした。これは軍用としてだけではなく、民間への給水用としても利用され、市民の生活に大きな影響を与えました。また、広島駅と宇品港を結ぶ宇品線沿いを中心に、陸軍の施設も数多く建設されました。この糧秣支廠もそのひとつですが、他に明治38年(1905)の陸軍被服廠(南区皆実町)、翌39年(1906)に陸軍兵器廠(現広大医学部資料館)などが相次いで建てられました。しかし、軍都として発展した広島は、昭和20年の原爆投下により、一瞬のうちに灰燼に帰することになります。この糧秣支廠の建物も相当の衝撃を受けたらしく、今でも内部に残る2本の折れ曲がった鉄骨が、その凄まじさを伝えています。また、この建物は、原爆投下直後、被災者の避難所にあてられており、被爆の歴史を語る証人でもあるのです。

「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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