市指定重要有形文化財
旧八木城主香川家文書(きゅうやぎじょうしゅかがわけもんじょ)
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名称 旧八木城主香川家文書
(きゅうやぎじょうしゅかがわけもんじょ)
指定年月日 平成6年3月25日
所在地 中区基町3-1
広島市中央図書館


 香川氏は代々源氏に仕え、広島に来る前は相模国高座郡香川邑(現在の神奈川県)在住の御家人でした。
 1192年、鎌倉に武家政権が成立しますが、その後も政権奪取の機会を伺っていた後鳥羽上皇は、源氏将軍が三代で滅んだのを契機に鎌倉幕府倒幕の兵を挙げました。〔承久の乱(1221年)〕これに対して、幕府方は執権北条氏を中心に京都に攻め上ったのですが、まさにこの幕府一大事の「いざ鎌倉」という時に馳せ参じた御家人のひとりが香川氏だったわけです。
 この「奉公」に対して、幕府が香川氏に与えた「御恩」が、安芸国佐東郡八木村の地頭職でした。八木村に入った香川氏は、太田川をはさんだ恵下山城の対岸の小高い山に八木城を築き、戦国時代になると武田氏、その後は毛利氏に属しましたが、関が原の戦いで破れた毛利氏が萩に国替させられたのに従うまでここで所領を統治しました。
 この香川家に伝わる「旧八木城主香川家文書」7通からは、当時の地頭の様子がよくよみとれます。例えば「関東下知状」は1245年に四代執権北条経時から、また「六波羅施行状」は1246年に六波羅探題から香川氏に宛てられたもので、新しく地頭となった香川氏に反抗を続ける八木村の元支配者に対する幕府からの排除命令が記されています。
 この書状からは、幕府の権威をかりて、以前からの勢力をなんとか抑えようとする香川氏の苦悩がうかがえます。当時の幕府が発行した裁許状は、このように土地に対する争い事がほとんどで、いかに武士達が土地を守るのに一生懸命だったかということがわかります。この一生懸命という言葉は、武士が賜った一か所「一所」を命懸けで守る「懸命」という意味の一所懸命という言葉が転じたものです。
 1263年に六代執権北条長時から送られた「関東御教書」では、将軍が京都に上洛するので費用を幕府に納入するよう命じており、いくさのない時でも「奉公」を要請される御家人の実態が示されています。
 また、「毛利輝元替所宛行状」では、毛利輝元から知行所の変更が通知されています。室町時代の末になると、幕府の力に比べ戦国大名の力が強くなり、香川氏が戦国大名である毛利氏の権力のもとで土地支配を行っていることがわかります。
 その他にも、毛利輝元が徳川家康に贈った見舞いに対する家康よりの謝礼状も含まれており、これは何らかの機会に毛利家から香川家に下賜されたものであると思われます。
 このように、本文書は、市内では最も古い鎌倉時代前期の中央政権発行のものから、戦国時代当地支配権力である大内義隆や毛利輝元発給の文書に加え、近世初頭の徳川家康書状よりなる由緒正しい武家文書であり、承久の乱以後に西国に所領を得て移住し、動乱の歴史を生き抜いてきた新補地頭の姿を具体的に示す資料としてたいへん貴重なものです。

* 『吾妻鏡』に寛元年代の前後、この人物名が見られる。当案件を担当した奉行人と思われる。

「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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