市指定史跡
日渉園跡(にっしょうえんあと)
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名称 日渉園跡(にっしょうえんあと)
指定年月日 昭和62年11月26日
所在地 西区三滝本町二丁目6-23

 日渉園跡は、寛政・享和年間(1800年前後)頃、広島藩の藩医である後藤松眠(しょうみん)が当時の沼田郡新庄村に開園し、明治4年(1871)に廃園になった藩営の薬草園跡です。現在は庭園の一部が残っているだけで、薬草地だった周辺は畑地や宅地になっています。そのため薬草園としての面影はほとんど残っていませんが、指定されている庭園跡は藩主や家老、当時の文化人等が度々訪れる日渉園の中心でした。
 日渉園は、眼下に太田川を見下ろす三滝山の日当たりのよい山腹に位置し、園の中心には住居と庭園があってその周囲に薬草地が広がっていました。薬草地は西側が約7300uの乾燥地帯、東側が約1500uの湿潤地帯で、それぞれ乾燥・湿潤に適した薬草を栽培していました。
 庭園は上下二段からなり、石段で結ばれています。上段には涸れた池とそこに架かる太鼓橋、「神農(しんのう)堂」と呼ばれる建物の礎石と台座等が残っています。下段には薬草の研究や薬の調合、弟子への講義等を行っていた「薬室」の礎石の一部の他、涸れた池や眼鏡橋等があります。庭園内には特に目立った巨樹等は見られませんが、狭いながらも独立した森として周囲の畑地や宅地と一線を画しています。
 日本では、薬草園は8世紀には存在していたことが知られていますが、全国的に開園されるのは江戸時代です。特に享保の改革以降、藩営の薬草園が全国に設置されて幕末まで繁栄を続けましたが、幕府や藩の保護を失った明治維新後は、洋薬の普及に伴う和漢薬の需要の減少もあって全国の薬草園は次々と廃園されました。
 ところで、日渉園には、薬草園としてだけでなくもう一つ歴史があります。それは、後藤松眠の子である松軒(しょうけん)が長崎でシーボルトに蘭学を学んだ際、高野長英と同窓であったことから親交ができ、長英が生涯に二度後藤家を訪れていることです。一度目は文政12年(1829)で、その際には広島で初めての蘭学の講義を行っています。二度目は幕政批判により「蛮社の獄」で投獄され、脱獄後、4年間の逃亡生活のうち一時期後藤家にかくまわれ、庭園内にある「神農堂」に隠れ住んでいたことです。


「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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