県史跡
頼家之墓(らいけのはか)
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名称 頼家之墓(らいけのはか)
指定年月日 昭和15年2月27日
所在地 南区比治山町7-10 多聞院境内

 比治山の麓にある多聞院(たもんいん)の裏手に、頼山陽の両親である頼春水(らいしゅんすい)、梅飃(ばいし)夫妻を初め、叔父杏坪(きょうへい)、子聿庵(いつあん)、孫誠軒(せいけん)など頼一族の墓が並んでいます。頼家は竹原の豪商紺屋の出身ですが、「三頼」と呼ばれる春水、春風、杏坪の三兄弟、春水の子山陽、その子聿庵など、いずれも学者として名をあげています。
 春水は大阪で儒学を修め、私塾を開きましたが、天明元年(1781)、七代藩主浅野重晟(あさのしげあきら)が広島藩学問所を開く折に招かれて教授となりました。彼の妻梅飃も文学、特に和歌に秀でていたと言います。春水の弟杏坪も大阪で儒学を学んだ後、天明5年(1785)藩学問所に登用されました。彼は文化10年(1813)頃から郡代官、郡廻り、三次町奉行などを歴任して行政の上でも実績をあげ、一方では修史局を統括して藩内の地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』159巻の編集にあたるなど、地方文化の向上に尽くしています。また山陽の子聿庵は、父が脱藩したため春水夫妻によって育てられ、後に藩校の教授になりますが、詩を好み、能書家であったと言います。
 なお、頼山陽の墓は、京都市東山区長楽寺にあります。


「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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