県史跡
植田艮背之墓(うえたこんぱいのはか)
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名称 植田艮背之墓(うえたこんぱいのはか)
指定年月日 昭和17年6月9日
所在地 南区比治山町7-10 多聞院境内


 広島における儒学は、藤原惺窩の門下生である堀杏庵(1585〜1642)によってまず朱子学が広められます。他の学派は、これよりやや遅れて藩内に広まりますが、植田艮背が伝えた(*)神儒学(垂加神道)もそのひとつでした。
 艮背は本名は成章と言い、慶安4年(1651)京都に生まれました。17歳の時にはすでに諸子百家の書を講じたと言われ、19歳の時山崎闇斎の門下に入りました。天和2年(1682)に、同門の友人楢崎正員から広島に招かれますが、師闇斎が危篤であったため断ります。しかし、これを聞いた闇斎に「汝の老母堂に在り、家貧にして親老ゆ、我が病を心と為し養親の大義を忘るなかれ」と勧められ、同年9月広島に来住したと言います。
 広島に移った彼は、客舎で武士や庶民に講義を行いました。これを喜んだ四代藩主綱長は、元禄3年(1690)、彼を城中へ召して会見し、その後新川場(中区中町周辺)に屋敷を与え、30人扶持をもって藩儒として召し抱えました。広島藩の中興の主と言われた五代藩主吉長も、正徳5年(1715)には200石を与えて優遇しています。
 艮背は享保12年(1727)に辞職しますが、その後もしばしば講席に臨み、85歳で没しました。この学統は、その後も加藤友益、友徳父子らによって伝えられました。

* 山崎闇斎が創始した神儒一致の思想。神の道と天皇の徳とが唯一無二になることを説いた。


「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。
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