県史跡 銀山(かなやま)城跡
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【略測図】
「広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』1993より転載

なまえ 県史跡 銀山(かなやま)城跡
(金城山城跡、武田山城跡、金山城跡)
所在地 広島市安佐南区相田、大町、祇園、山本
時代は? 中世
どんな遺跡? 山城

  本城跡は、武田山の山頂を中心とする尾根上にあります。山頂からの四方の眺望はきわめてよく、東側の山麓には太田川の形成した後背地が南北に広がっています。
 本城跡は、5郭群に大別されます。
 最高所の「御守岩台」と呼ばれる郭を中心とする山頂郭群には、「館跡」「見張台」と称する郭や「犬通し」という堀切等があります。「御守岩台」の中央付近には巨岩が集中し、建物を構架するためのものと考えられる加工痕が随所にみられます。また、「鶯の手水鉢」と呼ばれる人工的な窪みをもつ岩もあります。
 「御守岩台」の西180m地点の郭を中心とする郭群には、この郭の東に一つ、西に三つ郭を配し、南下には「観音堂」「上高間」と呼ばれる郭があります。ほかに「下高間」「馬場」「見張櫓」と呼ばれる所があるが、痕跡は明瞭ではありません。
 「御守岩台」から南に延びる尾根上の郭群には、階段状の三つの小郭と「千畳敷」と称する郭があります。ここから下って標高330m地点に「御門跡」があります。これは自然の石をベースに巨石を配したもので、近世城郭でいう桝型の原形とされています。「御門跡」からさらに下ると南と東へ続く登山道があるが、この南よりの小高い削平地には「馬返しの壇」を中心とする七つの削平地があります。
 山頂郭群の東には堀切を隔てて「出丸」と称される郭があり、そこから東に五つの小郭が階段状に並んでいます。
 本城は、安芸国守護武田氏の居城です。鎌倉時代末期に築城というが、詳細は不明です。武田氏滅亡後、1554(天文23)年まで大内氏の支配を受け、大内氏滅亡の後は毛利氏によって管理されました。

「広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第1集』1993より転載
 
 
山城ってなあに?(歴史の扉第9号)
 

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