学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。
「禅僧策彦周良が訪れた落城直後の金山城」
2026.10.15
策彦周良(さくげん しゅうりょう。1501~79)は、京都天竜寺(京都市右京区)の塔頭(たっちゅう。大寺院の敷地内にある末寺)妙智院、及び甲斐恵林寺(山梨県甲州市)を歴任した臨済宗の僧侶です。妙智院の住職を努めていた天文6年(1567)、策彦は周防・長門(山口県)の戦国大名大内義隆の要請で山口へ下向し、大内氏主導で派遣される遣明船(勘合貿易船)の副使となります。策彦ら一行は天文8年(1538)4月に五島列島(長崎県西部)を出発、苦難の末、明の都北京に入城して目的を果たすと、同10年(1541)6月に帰国しました。その後、策彦は安芸の金山城に在陣中の義隆を訪問し、帰朝報告を行いました。
義隆が在陣していた金山城とは、現在の広島市安佐南区武田山の山頂部に所在した山城で、鎌倉時代後期の安芸守護武田信宗によって築かれたとされます(広島県が指定した史跡名は「銀山城跡」ですが、中世の史料では「金山城」と表記されているため、ここでは「金山城」と表記します)。武田氏は鎌倉時代初期から南北朝時代中期にかけて断続的に安芸守護職を努め、安芸守護解任後も金山城に拠って安芸中心部を強固に支配した豪族です。信宗より五代後の信栄が永享12年(1442)に若狭(福井県南西部)守護を命ぜられ、惣領家(本家)が同国に本拠を移すと、安芸には庶流(分家。安芸武田氏)が残って同国の支配を担うようになります。この頃から武田氏と大内氏は安芸国内で武力衝突を繰り返しましたが、雌雄を決するには至りませんでした。しかし、毛利元就が大内氏の配下で台頭すると、安芸武田氏は次第に劣勢に転じます。そして、天文10年(1541)5月、毛利氏・大内氏連合軍の攻撃により、難攻不落を誇った金山城はついに落城、ここに安芸武田氏は滅亡しました。
策彦が義隆を訪ねたのは、まさに金山城が落城した直後の時期です。落城後、義隆は金山城を接収し、重臣の冷泉隆豊(れいぜい たかとよ)を城督(じょうとく。軍事指揮権を与えられて城郭を預かるとともに、周辺地域の行政を担った)として配置、自身も戦後処理のために滞在していたところ、策彦の訪問を受けたのです。策彦の日記「初渡集」(しょとしゅう)によると、策彦は天文10年8月18日に金山城へ到着、翌19日に義隆及びその養子晴持と対面し帰朝報告を行い、その後は9月18日まで滞在しました。この間、策彦は義隆や大内氏重臣の酒宴に度々招かれており、義隆自身が酒宴終了後に策彦を見送った日もあり、大内氏が策彦を手厚くもてなしたことが窺えます。
ところで、中世の有力武将の山城というと、麓に政務や客との対面を行う館があり、城主やその一族も日常的にはここで暮らし、山城は有事の際に立て籠もる場所だったと考えられてきました。しかし、「初渡集」を見ると、策彦が本丸の冷泉隆豊を訪ねた際は“上った”、策彦が城を去った際は“坂の途中まで見送られた”と記されており、策彦の宿所は麓ではなく本丸を除いた山上の郭群の一角に存在したと推測されます。また、策彦の帰朝報告の場、義隆が策彦を招いて行った酒宴の場のみならず、義隆の宿所も山上に存在したと推測されます。これらのことは、客人との対面やもてなしのための空間が山上の城内にあったことを意味します。
落城直後の城内というと、焼け落ちた建物の残骸など荒れ果てた姿がイメージされがちです。しかし、金山城の場合、麓や中腹での戦いを経て最終的には和議を結んで開城となったことや、落城後における大内氏の使用状況から、山上で戦闘が行われた可能性は低く、城内は大内氏が問題なく駐留できる状態だったと考えられます。近年、戦国時代の有力武将の本拠が平地の館から山上の城郭へと移り、城主一族が山上で生活していた例が多く確認されています。落城後の金山城で大内氏が使用した建物群は、武田氏が山上での政務や生活のために設けた建物をそのまま引き継いだと考えられます。
〔参考文献〕
『広島県史 通史2 中世』広島県1984
『山口県史 通史編 中世』山口県 2012
米原正義『大内義隆のすべて』新人物往来社1988
三浦圭一「楠葉西忍と策彦周良 遣明船の搭乗者たち」『図説人物海の日本史 3 遣明船と倭寇』 毎日新聞社1979
河村昭一『中世武士選書2 安芸武田氏』戎光祥出版2010
牧田諦亮『牧田諦亮著作集〈第5巻〉策彦入明記の研究』臨川書店2016
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| 策彦周良像 |
銀山城跡 |
| 松平定信編「集古十種 古画肖像 5」(寛政12年 〔1800〕刊)より。天竜寺塔頭妙智院が所蔵す る「絹本著色策彦和尚像」を模写したもの。 国立国会図書館蔵 |
安佐南区祇園・山本・相田・大町所在。城郭の規模は太田 川河口部最大級で、広島県の史跡に指定されています。 |
文化財課主任学芸員 篠原 達也
「古代とどんぐり ~どんぐりクッキーの試作とともに~」
2026.10.2
最近は朝晩が涼しく、秋の訪れを感じますね。秋といえば、実りの秋。どんぐりなどの木の実ができる季節でもあります。今でこそどんぐりを食べる機会はあまりありませんが、昔の人たちがどんぐりを食べていたことをご存知でしょうか?
今回は、古代の食べものであるどんぐりについて、先日行ったどんぐりクッキーの試作のようすも含めてご紹介します。
縄文時代の人は、シカなどの肉や川や海でとれる魚や貝類に加えて、どんぐりやクリなどの木の実を採集し食べていました。採集した木の実は地面に掘った貯蔵用の穴のなかに入れて、長期保存されました。どんぐりなどの木の実は、長期保存できることに加えて、カロリーが高かったことから、当時の大事な食料のひとつであったと考えられます。
実は、どんぐりにはそのまま食べられるものと、しぶみがありそのままでは食べられないどんぐりがあります。古代人は、そのままで食べられないどんぐりも、土器で煮たり水にさらすなどしてしぶみを抜いて食べていました。また、当時の遺跡からは、どんぐりなどの堅果類のデンプン質が含まれたクッキー状炭化物が発見されています。
なお、広島市内では、クッキー状炭化物は見つかっていませんが、弥生時代の遺跡から当時のどんぐりが炭化したもの(ツブラジイ・シリブカガシ)が出土しています。(詳細はこちら)
8月某日に、遺跡から出土したクッキー状炭化物にちなみ、どんぐりクッキーを試作してみました。クッキーに使うどんぐりは、そのまま食べても美味しいスダジイです。
まず、昨年の秋に収穫し冷凍保存していたスダジイをすりつぶして粉にしようとしたのですが、どんぐりの実がかたく、つぶすのに一苦労…。当時も木の実を粉にする際に使われていたであろう石皿とすり石を用いて(使用したのは当課で古代体験用に製作したもの)、2時間ほどかけて粉にしました(写真1)。
どんぐりの味が生かされるようにその他の材料の分量を工夫し、ついに完成しました(写真2)。結果は… ほんのりと甘いスダジイ本来の味が感じられて、とても美味しかったです。
歴史と食欲と実りの秋を一足先に満喫しました。そろそろどんぐりが落ち始める時期ですね。古代人も、この時期にはどんぐりが豊作か否か、ドキドキしながら採集にくりだしたことでしょう。私たちも、クッキー作りや古代体験で使うどんぐりを確保するべく、どんぐり拾いに励みます!
参考文献
譽田亜希子著『え?貝塚ってごみ捨て場じゃなかったんですか!? 知られざる縄文ライフ』(誠文堂新光社、2017年)
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| 写真1 石皿と磨り石でどんぐりをすりつぶすようす |
写真2 完成したどんぐりクッキー |
文化財課学芸員 渡世 理彩
「猫の妖怪」
2026.8.4
学芸員のひとことを執筆する順番がやってくると、毎回何を書けばよいのだろうか…と悩んでしまいます。何を書こうかと考えていると、自宅の愛しい猫のことばかり頭に浮かんでくるので、猫をテーマに夏らしいネタをご紹介したいと思います。
みなさんは、「猫又」という妖怪をご存じでしょうか。「猫又」は尾が二つにわかれた猫の妖怪で、鎌倉時代初期に書かれた藤原定家の日記『明月記』や鎌倉時代末期に吉田兼好が書いた随筆集『徒然草』に登場し、どちらの書物にも、人を食らったという記述があります。
また、「猫又」が出没したという伝承は全国各地に残されています。広島でも幕末頃の医師・進藤寿伯によって書かれた『近世風聞 耳の垢』に、明和3(1766)年に白島(現在の中区白島地域)にある武家屋敷で「猫又」が夜な夜な出没し、叩き伏せとらえたところ、赤い猫で尾は三尺(約91㎝)で二股であったので、すぐに叩き殺したという話が見られます。
「猫又」以外にも、猫をモチーフとした妖怪として「化け猫」がいます。江戸時代には多くの化け猫の話がうまれ、講談や歌舞伎を通して広く知られたほか、浮世絵にも描かれています。
猫は古くから人間と関わりのある動物であり、昼夜で瞳の大きさが異なっていることや独立心が強くミステリアスな性格をしていることなどから、猫をモチーフとした妖怪が生まれたのかもしれませんね。
参考文献
湯本豪一記念日本妖怪博物館『もののけ大冒険~妖怪と出会う夏休み~』2023年
小林祥次郎『日本古典博物事典 動物篇』勉誠出版株式会社2009年
『国史大辞典』吉川弘文館1990年
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| 李冠光賢 画 鍋田玉英 模写 『怪物画本』巻1 |
喜多川歌麿筆 『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』 |
| 縁側で尻尾が二股に分かれた「猫また」が手拭いを かぶって踊っている。 出典:国立国会図書館デジタルコレクション (https://dl.ndl.go.jp/pid/12984890) |
中央の猫は鯛を抱えて、グレーの猫の気を引こうと しているのだろうか。 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) |
文化財課学芸員 日原 絵理
「物価高、恐るべし…!」
2026.7.27
最近、広島にゆかりのある某お菓子メーカーがパッケージを白黒にするというニュースがありました。広島のスーパーマーケットなどでも販売が始まったようなので、すでに店頭で見かけた方もいらっしゃるかもしれませんね。
このように、生活の中でも石油やナフサ不足の話を身近に感じるようになりましたが、当課の業務にも石油不足の影響が出始めています。
例えば、現場の出土品を持って帰るための袋。発注をお願いした業者の方の話によると、購入数量の規制がかかっているようです。出土品の破片をくっつける際に使用する接着剤も、この間購入した際に確認してみると、1個当たりの値段が3カ月前に購入した時よりも数十円上がっていました。
一番打撃が大きかったのが、出土品や活用事業で使用する物品などを収納するためのコンテナです。1個あたり数千円するのですが、出土品の数が多い現場の整理作業では、百個近く使用することもあります。常に不足している状態で、コンテナを使いたい場合は、見つけ次第自分なりに確保しておかないと、すぐに他の職員に使われてしまいます。
このように、当課職員の間で取り合いをしているコンテナですが、今年度の初めに購入した際、業者の方から、次回から3割程度値上がりするとのお話がありました。ただでさえ争奪戦をしている状態なのに、買えるコンテナの数がどんどん減っていく…と物価高を痛感する出来事でした。
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| 収蔵庫の様子 棚に入りきらず、床の上まで置いています。 足の踏み場が徐々になくなっていく… |
整理作業の様子 天井近くまで整理途中のコンテナが積みあがっています。 写真の詳細については、こちらの記事をご覧ください。 |
文化財課学芸員 近藤 博美
「もうすぐ大暑!」
2026.7.14
毎日茹だるような暑い日が続いていますね。今年からは最高気温40℃以上の日を「酷暑日」と呼ぶように気象庁が設定し、益々厳しい暑さを感じるようになったのではないでしょうか。
さて、カレンダー(日付だけでなく、いろいろ文字が書かれているタイプのもの)に目をやると、7月のある日に「小暑」や「大暑」と小さく書かれているのを見たことがありませんか。これらの言葉は二十四節気に含まれている名称です。
二十四節気は、もともと古代中国で生まれたもので、暦のなかで春夏秋冬の四季をそれぞれ6つに細分し、季節の移り変わりを表す言葉としています。日本へは平安時代に持ち込まれたようで、「春分」や「立春」・「夏至」などが身近に知られています。一方「小暑」や「大暑」はあまりなじみのない言葉となっているかもしれません。
「小暑」や「大暑」は、江戸時代までの旧暦(太陰太陽暦)では6月に記載されているのですが、現在の暦(太陽暦)では「小暑」は7月7日の頃で、本格的な暑さが始まる日とされています。また「大暑」は7月23日頃、一年中で最も暑さが厳しい時期に入るとされています。この頃には梅雨が明け、夏本番を迎えるようになります。
さて暑いことと言えば、現在私が担当している発掘現場でも、強い日差しと高温多湿の状況で、まさに酷暑と呼べるかもしれません。日中ずっと作業していると日々疲労困憊でクタクタです。
昔から「大暑」の頃は実際に暑さが一番厳しかったようで、その様子が伝わる俳句がいくつか詠まれています。
「じだらく(=だらしなく)に 勤めてゐたる 大暑かな」石田波郷
「念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな」村上鬼城
年々暑さが厳しくなり、熱中症による死傷者が全国で増加している中、水分補給だけでなく熱中症予防の強化が求められています。暑さに負けて現場で倒れてしまわないよう、気力だけでなく対策を講じながら何とか乗り越えたい今日この頃です。
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| 発掘現場の気温計 この日は31.9℃でした。 |
発掘現場のようす |
文化財課主任学芸員 山脇 一幸
「メダカ」
2026.6.9
我が家ではベランダでメダカを飼っております。現在大学生の息子が小学校3年生の夏休みに、仲の良い同級生たちと行ったアステールプラザでの催しで釣って持って帰ってきたザリガニ用にと、奥さんが職場敷地内にある池から持って帰ってきた水草にたまたまメダカの卵が着いていて、その後、孵化したのがきっかけです。ザリガニは早々に居なくなって、メダカだけが残ったのがはじまりってわけです。
ところで、メダカは、ダツ目メダカ科に属する小型淡水魚の一種です。目が頭の高い位置にあることから「目高(めだか)」と呼ばれるようになったと言われています。江戸時代にはすでに観賞用として飼育されていたようです。日本各地で親しまれ、地方名は4700種類近くもあるそうです。
また、様々な目的の科学研究に用いられていて、1994年7月に打ち上げられたスペースシャトル「コロンビア号」に、日本人女性としては初の宇宙飛行士向井千秋さんとともに4匹のメダカが15日間宇宙飛行したのは有名です。
西欧には、江戸時代に来日したシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)によって、1823年に初めて報告されています。その後、1846年にテミンク(Coenraad Jacob Temminck)とシュレーゲル(Hermann Schlegel)によって学術書(『日本動物誌(Fauna Japonica)』)に記載され、ニホンメダカは学名Oryzias latipesとして分類されたそうです。
通常、メダカは春から夏にかけて産卵し、孵化した稚魚は夏、秋の間をかけて成長し、次の年に産卵します。メダカの産卵時期と水田に水が張られる時期が一致しており、日本の稲作文化との関りを示すかのように、「水田の魚」とも称されます。日本列島に稲作文化が定着した弥生時代以降、水田灌漑の形成により、人工水域への適応、拡散をした可能性が考えられます。そして、約2,000年以上の間、日本人にとって身近な存在としてあり続けています。
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我が家のメダカ |
文化財課学芸員 高下 洋一
「広島藩の一里塚と一里の長さについて」
2026.5.15
江戸時代、主要な街道には一里塚が設けられ、旅人が道のりを知る目安となっていました。その名のとおり一里塚は概ね1里ごとに設けられていましたが、江戸時代の1里の長さは地域で異なっており、同一藩内でも異なる場合がありました。
安芸・備後両国(広島県)における一里塚については、毛利輝元が広島城主だった天正20年(1592)に、備中高梁川から肥前名護屋城まで36町(約4.3km。1間6尺5寸で計算。以下、同じ)ごとに一里塚が築かれたという記録(「豊臣秀吉九州下向記」)があり、これが最も古い記録のようです。これに次いで古いのが、浅野長晟が広島城主だった寛永10年(1633)の記録で、幕府巡検使下向に備えて広島藩内の一里塚が整備されたこと、その際の1里は36町だったことが確認できます(「玄徳公済美録」巻四上『新修広島市史 第1巻 総説編』)。
しかし、江戸時代中期に萩藩が作成した街道絵図『行程記』(山口県文書館蔵)によると、同時期の広島藩の西国街道では、36町1里だけでなく48町(約5.7km)1里あるいは50町(約5.9km)1里の区間があったことが確認できます。また、48町1里の区間に位置した、御調郡三原城下西町の西ノ宮一里塚(三原市西町)については、厳密に48町間隔にすると三原城内に位置するため、あえて西へ6町ずらして設置されており、東西それぞれ次の一里塚までの間隔が、東は54町、西は42町という特殊事例もあったようです。さらに、江戸時代後期の紀行文には、70町1里、72町1里の区間の存在を窺わせる記述もあります(「小春紀行」「塵壺」)。
なお、お隣の福山藩と萩藩の場合、西国街道は36町1里であり、山陽地方西部諸藩のなかで広島藩のみが統一されていませんでした。残念ながらその原因については明らかになっていませんが、今後の研究の進展に期待したいと思います。
明治時代になると一里塚は不要とされ、明治9年(1876)に政府は、調査の上「有害無益」の一里塚は廃棄し入札によって民間に払い下げよ、と各府県へ通達しました(「百二十号街道一里塚ノ内有害無益ノ分総テ廃毀」)。これにより、一里塚の廃止が進み、多くが取り壊されました。今日、広島県内の旧西国街道では一里塚がそのまま残されている場所はありませんが、移築復元されたものがあります。また、一里塚跡を示す石碑が建てられている場所も多くあります。みなさんも一里塚の痕跡を訪ねてみませんか。
参考文献
川村博忠「近世道中絵図『行程記』の内容と成立時期」『山口県地方史研究』第55号 山口県地方史学会 1986
山田 稔「近世街道絵図「中国行程記」について」『山口県文書館研究紀要』第41号 山口県文書館 2014
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| 移築復元された日向一里塚 |
小己斐山一里塚跡石碑 |
| 東広島市西条町上三永所在。東広島呉自動車道建設に 伴って発掘調査が行われ、その後、元の場所から西へ 60m程離れた側道脇に移築復元されました。 |
広島市西区井口鈴が台1丁目(鈴が台第三公園脇)所 在。佐伯郡井口村の小己斐山一里塚の跡地に建てられ た石碑。 |
文化財課主任学芸員 篠原 達也
「新年度スタート!」
2026.4.16
新年度がスタートしましたね。環境が変わった人も変わらなかった人も、少しだけ背筋が伸びる季節ですね。本年もこのコーナーでは、歴史・文化に関することや職員が興味を持っていること、文化財課のお仕事のことなど、さまざまなひとことを発信していきますので、引き続きよろしくお願いします!
さて、今年度、第一弾の「学芸員のひとこと」は、当課のイベント情報をご紹介します。当課では、毎年4月29日に安佐動物公園にて、「鹿角ストラップづくり」を実施しています。この事業は安佐動物公園と共同で開催しており、毎年たくさんの来園者のみなさまに参加していただいています。
当課は、市内の遺跡の発掘調査を行っている部署ですが、遺跡からは動物に関連する物がたくさん出土しています。これらの出土品からは、単に古くから動物と人間が共存していたということだけではなく、当時の人々の暮らしぶりがどのようなものだったかを窺い知ることができます。
このイベントでは、鹿角をカットしたプレートとビーズを使ってストラップを作る体験や、発掘調査によって出土した動物の骨や狩りの道具、動物を模した土人形などの紹介を行います。このイベントをきっかけに、古くから続く人と動物との関わりについて、少しでも興味をもってもらえるとうれしく思います。
文化財課では、このように歴史や文化に関するイベントを多数実施しています。当課が実施するイベント情報は、ひろしまWEB博物館のイベント情報掲示板や公式Instagramで紹介しておりますので、定期的にご確認ください。また、当施設のアカウントをフォローされていない方は、ぜひフォローしてくださいね!
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| 昨年度の様子 | 埋蔵文化財保存活用施設Instagram |
文化財課学芸員 日原 絵理
- 2026.10.15
- 「禅僧策彦周良が訪れた落城直後の金山城」
- 2026.10.2
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- 2026.7.27
- 「物価高、恐るべし…!」
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