学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「江戸時代のコスメ」

2020.9.29

浮世絵 朝晩と涼しくなり、秋の訪れを感じる今日この頃。私は季節の変わり目になるとお肌が乾燥してくるので、新しい化粧品が欲しくなってしまいます。
 今回は、江戸時代の化粧についてお話したいと思います。最近は化粧をする男性もいらっしゃいますが、江戸時代の化粧は女性のたしなみとして位置づけられていました。当時の化粧は赤(口紅・爪紅・頬紅)、白(白粉)、黒(お歯黒・眉)の3色を基本とし、髪型とともに年齢、未婚・既婚、子どもの有無、身分などの情報を視覚的に表すものでした。
 3色の中で一番華やかでアクセントとなるのは紅化粧。紅花から抽出される紅は貴重品であり、非常に高価でした。紅は口紅としてだけでなく、頬紅や爪紅、アイメイクにも使用されました。現在の口紅はスティック型のものが主流ですが、当時は磁器製の紅皿(紅猪口)の内側に筆などで液状の紅を塗布し、乾燥させて販売していました。

 遺物広島城関連の遺跡からは、紅皿や白粉三段重(おしろいさんだんがさね)※1の蓋、うがい茶碗※2、鬢盥(びんだらい)※3など身だしなみを整えるのにかかせない道具がたくさん出土しています。江戸時代と現代では、化粧の仕方や意味合いが違うところもありますが、おしゃれに対する意識の高さや感性などで共通している部分もあるような気がします。


 ※1:白粉三段重は、一番底の水を入れる深い段、白粉をいれる段、混ぜ合わせる段の三段になっている。
 ※2:女性がお歯黒を付けた後に使用するうがい用の碗。
 ※3:鬢水入れの別名。鬢水という髪をなでつけるのに使う水性の整髪料を入れる道具。

文化財課学芸員 日原 絵理 / 画像上:『当世美人合踊師匠』香蝶楼国貞 国立国会図書館蔵/画像下:広島城関連遺跡から出土した白粉三段重の蓋(左下)、うがい茶碗(左上)、鬢盥(右)


「おはじき」

2020.9.3

おはじき 今回は平和公園内レストハウス発掘調査でみつかった遺物の中から、おはじきを紹介します。
 おはじきというと、皆さんはどんな印象を持ちますか? 私の場合は昔のこどもの遊び道具なのですが、いまどきのお子様方にとっては小学校の算数セットに入っている(お家の方々にとっては名前付けがとても大変な)お道具という感じかもしれませんね。
 おはじき遊びは、もともと小石や貝を使っていたとされています。拓本表拓本裏古代、中国から我国に碁が伝わると、身分の高い人々の間では碁石を使ってのおはじき遊びもはじまりました。ガラスのおはじきは近代以降に、プラスチックのおはじきは戦後に広まります。

 写真のおはじきですが、ガラスでできています。ちょっといびつな円形で、直径は2㎝弱、厚みは4㎜程度です。注目すべき点は、そのユニークなデザインです。表面には「寛永新法」の文字がエンボスされています。これは、江戸時代に流通していた「寛永通宝」をもじったものです。また、裏面は波型がついています。波の数は11あるので「寛永通宝」の四文銭に忠実です。今でいうと、「こども銀行」発行のお金といった感じでしょうか。というわけでこのおはじき、お金としても遊ぶことのできる、優れもののおもちゃなのです。
 さて、このおはじき、どんなところから出てきたのか気になりませんか?答えは、トイレの便槽です。(おはじきと一緒に明治時代に発行された本物の硬貨もみつかっています。)もしかすると、このおはじきをトイレに落としてしまった持ち主は、本物のお金を落とした大人以上に残念な思いをしたのかもしれませんね。

文化財課主任学芸員 荒川 美緒 / 写真上:おはじき 写真下:おはじきの拓本


「お盆です」

2020.8.24

盆灯籠 今年はいつもと違うお盆休みでしたが、その間に毎年恒例のお墓参りに行ってきました。我が家では市内数箇所の寺を回るのですが、ある寺で広島の夏の風物詩「盆灯籠」を供えました。
 盆灯籠は竹と複数の色紙を朝顔型に飾りつけたものをお墓に供えます。また、初盆の場合は白一色の盆灯籠を供えます。どのような経緯で盆灯籠を供えるようになったのかは明らかでありませんが、浄土真宗本願寺派の安芸門徒によって広められたとされています。戦前は広島市旧市内を中心に分布し、戦後には芸北地域にまで波及したといわれています。
 しかし、近年では火災防止や廃棄物処理の観点から盆灯籠を廃止する寺が増えており、私もこの一箇所でしか盆灯籠を供えることができませんでした。時代の流れと共に風習が変化していくのはやむを得ませんが、墓地一面に色鮮やかな盆灯籠が広がっている姿は圧巻で、これを見ると今年もお盆がやってきたなとしみじみ感じることができます。お盆が過ぎ、この姿を見られるのは一年後、その頃にはまたいつも通りの日々が過ごせることを祈るばかりです。

文化財課学芸員 高土尚子


老化との闘い

2020.7.13

 以前の学芸員のひとことで、作成した図面を印刷仕様にするためにするトレースが、ペンによる手書きからからパソコン作業に変わったことを紹介しました(リンク)。 このパソコン上でのトレース作業は64000%まで拡大できるので、老眼の私にも難なく作業ができます。
 しかしながら、トレースの前段階にあたる実測のほとんどは、手作業により行っています。特に土器など出土遺物の実測作業は大変です。ミリ単位の方眼紙に出土物の寸法を測り作図していくわけですが、 裸眼では全く仕事になりません。というわけで、最近の私は、老眼鏡にヘッドルーペのダブル掛けというスタイルで実測しています。このスタイルでも見にくいのがキャリパーという厚みを計る機器。「こんなの見えるか!」と叫んでしまうこの機器のメモリは、なんと5㎜の間に10㎜分のメモリが刻んであります。さらにメモリを差し示す部分は、金属に細い傷のような線があるだけ。 調査員の高齢化が進む中、世の老眼調査員達には切実な問題ですが、これを見越してか最近ではキャリパーにつける拡大レンズなども販売されるようになりました。すばらしいマーケット調査力に感謝です。

文化財課主任学芸員 桾木敬太

 
土器の実測風景。老眼鏡にヘッドルーペで作業。矢印
の機器がキャリパー。
キャリパーにかかれたメモリ(下側)。光るとさらに
見えない。

「城の守りと城下町」

2020.6.30

 昨年、レストハウス改修工事に伴う発掘調査で平和記念公園へ通っていた時、公園を横切る道路が緩やかに曲がっていることに気付きました。この通りは江戸時代に整備された西国街道の一部で、橋や道の位置は昔とほとんど変わりませんが、江戸時代の絵図(常設展「広島町新開絵図」)や被爆前の航空写真(写真右)ではほぼ直角に折れ曲がっており、昔からの道を車が通りやすい緩やかなカーブに変えたものと考えられます。
 このクランクは、「鉤の手」などと呼ばれる敵の勢いをそいで迎え撃つための工夫で、城下町や宿場町で多くみられたようです。「広島城下町絵図」(常設展)を見ると、西国街道に沿って西側から広島城へ向かう場合、現在の平和記念公園である中島地区を通ることになります。中島地区では西国街道の南北に寺社が立地していましたが、城下町の寺社は有事の兵の詰め所を想定して配置されていたことから、城下での防衛拠点として町割りがされ、「鉤の手」もその一環で整備されたと考えられます。
 原爆で街並みは大きく変わりましたが、公園内の道路は城下町の名残を留めています。

文化財課主事 兼森帆乃加

航空写真 航空写真      写真左:平成20年5月21日撮影            写真右:昭和20年7月5日撮影
   「地図・空中写真閲覧サービス」(国土地理院)(https://mapps.gsi.go.jp/)をもとに作成


「とうかさん」

2020.6.1

とうかさん 6月第1金・土・日曜日の3日間、広島の円隆寺で行われる「とうかさん」が、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、今年は中止となりましたね。広島に初夏の訪れを告げる風物詩でもあり、浴衣の着始めの祭りでもあったので、やはり中止だと寂しいです。
 そもそも、「とうかさん」とは、日蓮宗円隆寺の境内にある稲荷(とうか)大明神を祭る稲荷堂(とうかどう)の祭りです。円隆寺では稲荷大明神を総鎮守と呼んでいます。稲荷と言うと、神道の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を連想しがちではありますが、円隆寺の稲荷堂の祭神は、ヒンドゥー教に由来する荼枳尼天(だきにてん)です。荼枳尼天は、人の死を予見できることから、戦場での武運長久に結び付き、江戸時代は武家の信仰も深かったようです。
 円隆寺の稲荷大明神の祭日は、昭和29年(1954)までは、旧暦5月5日の端午の節供で、この祭日に限り稲荷堂がご開帳されていました。昭和30年(1955)からは、旧暦の端午の節供に直近の土・日曜日に移して行うようになり、昭和33年(1958)からは、「とうか」と音が通じる「とおか」(10日)に祭りをすれば覚えてもらいやすいと、6月9日・10日が祭日となりました。しかし、この時期はちょうど梅雨の時期でもあり、露天商などからの要望もあり、昭和36年(1961)からは8日も加え、6月8日・9日・10日の3日間に固定された祭りになりました。平成10年(1998)からは、祭りの賑わいなども考慮して、6月の第1金・土・日曜日の3日間が祭日となり、現在に至っています。
 普段何気なく参加している祭りも、その祭日を調べてみると、それぞれに歴史があります。日本の年中行事の多くは、月の満ち欠け(新月か満月か)を重視しており、旧暦では、初日の出を迎えた元旦の夜は、新月の暗闇です。そして新年最初の満月の1月15日が、大きな火を焚くとんど祭りと言うことになります。しかし、行事の祭日の多くを旧暦からそのまま現在の新暦に移行させているので、こうしたこともわかりにくくはなってはいますね。

文化財課主幹学芸員 秋政 久裕 / 写真:平成28年のとうかさん


「梅雨の季節」

2020.5.25

  気が付けばもう5月下旬になってしまいました。6月に入ると、梅雨がやってきますね。雨の日が続くと洗濯物は乾かないし、外出も億劫になってしまいますが、おしゃれな傘をさすと気分が晴れやかになります。
 さて、現在、私たちが使っている傘は洋傘ですが、いつ頃から使われ始めたのでしょうか。江戸時代の広島では、和紙づくりが盛んだったこともあり、和紙と竹でできている和傘は藩の特産品として発展していきました。明治時代に入っても、和傘づくりは盛んに行われていましたが、明治16(1883)年に発行された商工便覧『広島諸商仕入買物案内記幷二名所しらべ全』を見ると、洋傘とみられる傘※を売っている店や持ち歩いている人々がいて、庶民にも洋傘が普及し始めていたことがわかります。また、明治30(1897)年に出版された『東京新繁昌記』には「洋傘即ち蝙蝠(こうもり)傘は日と雨と両用にして、其携帯の上より言ふ時は日本の傘の携帯不便利の比にあらず、洋傘は比便利實用」と記載されており、当時の洋傘は、晴雨兼用で使われていたことがうかがえます。
 しばらくの間、新型コロナウイルスの影響で例年のように外出することは難しいと思いますが、おしゃれなデザインの傘を買って出歩くと、少し気分転換になるのではないでしょうか。

※和傘の場合は、閉じて持ち歩くとき、柄を持つと傘が開いてしまうので、天頂の吊り紐を持ちます。また、和傘は置く時に頭の部分を上にしておくので、手元は真っすぐになっています。洋傘の場合は、天頂部分に石突という棒がついていて、手元はステッキのようにJ字形になっています。

買物案内記  店内では、算盤(そろばん)や帽子、洋傘などが販売されています。

文化財課学芸員 日原 絵理 /画像:『広島諸商仕入買物案内記幷二名所しらべ全』算盤製造卸商 洋産小間物品々 広しま平田屋町南側角 若林守夫(広島市郷土資料館蔵)


「山城跡からの眺望」

2020.5.19

山城 山城とは、鎌倉時代から戦国時代にかけて山や丘の上に築かれた城郭のことで、戦時の防御を意識しながら地形をたくみに利用してつくられています。群雄割拠の時代を象徴するように、広島市内においても 200か所以上の山城跡が確認されています。
 写真は安佐北区深川町にある院内城跡から撮影した遠景写真です。多くの場合、山城跡を訪れても、周囲が樹木に覆われて周辺を眺望できないことが多いのですが、写真では眼下に広がる地形や町並みが一望できています。その理由は、山上の鉄塔建替工事とそれに伴う埋蔵文化財発掘調査のために、周辺の樹木が伐採されたからなのです。
 発掘調査の準備のために現地へ通っていますが、山の麓から約30分かけての山登りは、個人的には日頃の運動不足を解消する機会にもなっています。これからの時季は気温の上昇も予想されますが、新型コロナウイルス感染防止と熱中症対策を十分に行い、調査開始に備えたいと思います。

文化財課主任指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真:山城跡からの眺望


「招き猫」

2020.5.12

 世間では、右手をあげていると金運を招き、左手をあげていると人を招くといわれる招き猫。両手をあげているとどうなるのでしょうか。ありとあらゆるよいことを招くのでしょうか。それとも欲の張り過ぎでお手上げとなってしまうのでしょうか。
猫  平和記念公園内のレストハウス改修工事に伴う発掘調査でも招き猫が見つかっています。近代の製品と考えられる磁器製の白い招き猫は、高さ5㎝、幅と奥行きは2.5㎝ほどで、手のひらにのせるとちょうどいいサイズ。お店とかに飾るにはあまりに小さすぎなので、個人的に身近なところに飾られていたものでしょう。
 一年前の今頃は、「来年はオリンピックで盛り上がっているんだろうな。」なんて考えていました。しかし、現実は全く違う状況となりました。
 この招き猫は左手をあげています。迷信といってしまえばそれまでですが、招き猫に願をかけたくなります。この大変な状況が一日も早く収束して、人々が街に行き交う日常が戻ってきますように。


文化財課主任学芸員 荒川 美緒 / 写真:レストハウスの発掘調査で見つかった招き猫


「北谷山城跡と白磁考」

2020.4.30

北谷山城跡地形測量図及び遺構配置図  発掘調査では、報告書には載せきれなかった調査員の思いが往々にしてあります。昭和59(1984)~60(1985)年、広島市東区温品にある北谷山城跡の発掘調査が行われました。この遺跡の発掘調査を担当し、調査員OBの奥田壮紀さんから、遺跡や確認された遺構、遺物について長年考えられてきたことに関するレポートをいただきました。奥田さんに敬意を表し、ここで紹介させていただきます。報告書と併せてご一読いただければと思います。

-北谷山城跡と白磁考-
 北谷山城跡は発掘調査により、近接する居館的な永町山城跡に付随した、根小屋的な詰めの城であったと推察される。
 詰めの城は日常生活を営む居館の城が落城した後の退守を担うことから、居館の城の背後に位置する尾根上に築かれる。そのため、立地が必然的に高所になるうえ、最後の砦として多数の兵で籠城することが予想されるため、水の確保の問題はいわゆる「山城」の中でも特に重要であったと思われる。当城跡においては第3郭から大甕を設置したとみられる土壙が3基並んで検出されているが、大甕は城内での水の貯蔵に用いられることも多いため、貯蔵についての備えが窺われる。しかし、調査範囲からは確保の手段となる井戸などの遺構は見つかっていない。
 一方、水にまつわる遺構として溝は各郭において検出されている。第1郭、第2郭及び第4郭のものは周辺の柱穴との位置関係や平面形状により、郭内の構築物の雨水排水用と考えられるものである。そうした中で、第3郭及び隣接する武者走りから検出されたものは、築造された位置が同じであるため繋がっているように見え、共通する目的を持っていることが窺えるものである。この溝は、第2郭から比高差約8m下の第3郭及び武者走りへ下りきった斜面の根に位置し、幅20㎝、深さ2~10㎝の規模で地山を掘り込んで造られている。形態を確認できない箇所も見受けられはするが、斜面の根に沿って二つの遺構のほぼ全域で確認できる。
 この溝に付随する遺物と考えられるものに、第3郭中央西側の溝上から出土した白磁皿がある。この皿は口径12㎝、器高3.25㎝の中国製で、物を置き易い形状をした石の上に載せられていた。土台となっている石は1個体であるが、あたかも縦・横が各30㎝、高さ10㎝の石の上に、縦・横が各20㎝、高さ5㎝の石を、二辺を揃えて重ねたような二段形状をしている。そのような独特な形状の石が敢えて溝の上に架けられ、上段に白磁皿が置かれた特徴的な出土状況は、あたかも溝に供えられたかのように見える。
 一方、この溝を検出位置から考察すると、維持管理するためには斜面の崩落を防ぐことが欠かせない。それを実現する手段の一つとして斜面から表土を除去しておくことが挙げられるが、第3郭中央部の斜面で縦堀状遺構が検出され、遺物がその地山直上から出土していることは、正に表土を剥いだ範囲が実在していたことを示している。また、第3郭東側で検出されているかまどは、斜面に近接しており、付近に建物や廂が築かれていた可能性もあることから、火事を防ぐために上部及び周辺の樹木や腐葉の堆積した表土を除去したことが考えられる。更に、上方に築かれた第2郭は拡張されているが、盛土に用いられている淡赤褐色土は粘性があるため、滑らかな地山面に固定し易い。これらを勘案すれば、あるいは溝直上の斜面を地山化させていたことも想定し得る。そうであれば、地山面と淡赤褐色土面により土中への吸収が抑えられた水分は、地表に留まる割合が高くなるため、斜面の根元に設置された溝は、降雨時に自然流下する雨水を確実且つ大量に集めることができたと思われる。
 前述したように、当城跡の調査範囲から井戸などは見つかっていない。その反面、温品川は城跡から間近に見下ろせ、大手方向の城域が川の方向に延びていた可能性があり、直下の水田との比高も50mであるため、水の潤沢な供給源であったと推測できる。それにも拘わらず、城内からは水に対する逼迫した思いを表すように、大甕が割られ、口縁部が第2郭東側、底部が第3郭西側、体部が縦堀状遺構から散乱して出土し、武者走りにある岩盤上からは、浸みずに残る水を溜めるかのように鍋が埋め込まれた状態で出土した。また、仏具の仏花瓶と香炉が出土しているが、香炉にいたっては第2郭、第3郭及び第4郭南側(第5郭)と城内の各所から出土した。こうした状況が相俟って、水の入手が困難となった城の危機を思い描かせる。
 ひるがえって、既述した溝上の白磁皿の出土状況は、第3郭内の中央部が選ばれ、器自体が「当時の貴重品」であるうえ「白色」のものであることから、儀式の痕跡と想起させる。溝は築造形態が簡素で容量も小さいため、その役割を水の確保と推定することは困難であり、城の防御・視覚的威圧を目的とした地山化の排水用と考えるのが妥当なものである。しかし、温品川に辿り着けない状況に陥った中で、降雨時の水の集積状況を思い起こせば、水を確保できる手段として認識されたとしても不思議ではあるまい。中国製の白磁の皿を、二段形状の石の上に載せて溝に供えたような姿は、天候という「神頼み」の事象に対し、すがる思いで「雨乞い」を執り行った姿なのかもしれない。


元広島市教育委員会管理課 職員 奥田壮紀 / 画像:北谷山城跡地形測量図及び遺構配置図(画像をクリックするとPDFが見られます)

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