■解説 〜群集(ぐんしゅう)する古墳〜

 6世紀になると、畿内を中心とする連合政権が全国に直接支配を浸透させていく手段として、政権や豪族が直接支配下に置く部民(べみん)と呼ばれる集団や、各地に屯倉(みやけ)と呼ばれる直轄地が設置されるなど、行政組織の先駆けともいえる国家としてのわく組みが形作られていきました。
 この頃、安佐北区可部町や白木町の山中に、直径10m前後の小型の古墳が一か所に集まって多数造られるようになります。このような小型の古墳の集まりを群集墳(ぐんしゅうふん)といい、全国各地で6世紀から7世紀にかけて造られました。広島市内にある古墳の多くは後期以降(6世紀〜)のものです。群集墳は広島県内では県北部に特に多く造られています。
 6世紀までの古墳はごく一部の人たちのものでした。この時期に古墳が増加したのは、より広い階層の人々にも古墳を造ることが認められたためであり、畿内を中心とする連合政権の影響が地方の末端まで浸透したことを示しているとも考えられています。

×閉じる