■解説 〜はじめに〜

 この時代は日本の国が唐の制度にならって、律令制に基づく中央集権的国家という体制を整えていく時代です。豪族が治めていた土地や人々は国のものとなり、国家体制のなかで「安芸国」として中央に組み込まれて国府※1が造られ、国司の支配を受けるようになります。安芸国には8郡が設置され、各郡に郡家※2が設置され郡司が支配するようになります。
 一方、7世紀中ごろになると、大陸から伝わってきた仏教が次第に広まり、安芸地方でも地方豪族らが古墳に代わって寺院を建築するようになります。やがて仏教は国家仏教になり、国分寺が造られて行きます。
 古代の遺跡は、広島市内及びその周辺にはそれほど多くありません。しかし都から地方へ通じる古代の官道七道のうち、大宰府を結ぶ大動脈である古代山陽道が通っていたこともあり、古代国家の末端施設である駅家(うまや/えきか)跡、役人の墓跡などの遺跡や寺院に関係する遺物などが見つかっています。また、古代の大規模な耕地の区画である条里の跡が広島市内の各所に残されています。

※1 国府(こくふ)・・・国の行政機関や官衙施設である国衙(こくが)と周辺の関連施設、またはその所在地のこと。
※2 郡家(ぐうげ・ぐんげ・こおげ)・・・郡単位の地方行政機関や官衙施設、またはその所在地のこと。郡衙(ぐんが)ともいう。

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