■解説 〜毛利氏戦国大名へ〜

 毛利元就は大永3年(1523)に毛利家の家督を相続します。毛利氏は大内氏・尼子氏それぞれの陣営に属していた時期がありましたが、大永5年(1525) に尼子氏と絶縁して大内氏の陣営に属した元就は、天文10年(1541)に郡山城を包囲した尼子氏の大軍を撃退して武名を高めました。その後、大内氏と毛利氏は武田氏を滅ぼし、毛利氏は広島湾頭の旧武田領の一部を獲得しました。さらに、元就は次男元春(もとはる)に吉川(きっかわ)氏、三男隆景(たかかげ)に小早川(こばやかわ)氏を相続させて安芸・備後の国人領主連合の盟主としての地位を確立していきました。
 天文20年(1551)、大内氏の重臣陶晴賢(すえはるかた)が、当主大内義隆を自刃させ大内氏の実権を握ると、やがて陶氏との関係は悪化しました。天文23年(1554)に陶氏と断交すると、広島湾頭の銀山城(※)・己斐城・草津城・桜尾城を占拠したのち、弘治元年(1555)の厳島合戦で元就は陶氏を破り、戦国大名への道を歩み始めました。

(※)当時は「金山城」と記されていましたが、ここでは県史跡名称の「銀山城」を使用しています。

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