■解説 〜支配領域の拡大〜

 厳島合戦で陶氏を破った毛利氏は、弘治3年(1557)に大内氏も滅ぼして周防と長門を自らの領国とし西日本の一大勢力として成長していきます。この頃、元就は毛利氏の運営について、当主である長男隆元を弟の吉川元春、小早川隆景が支えるという方針を打ち出し、永禄6年(1563)に隆元が急死した後も、隆元の子輝元(てるもと)が当主となり、いわゆる毛利両川体制が確立されました。その後、毛利氏は北方の尼子氏も永禄9年(1566)に月山富田城(島根県安来市)に下し、中国地方の大半を手に入れて一時は九州・四国の一部にまで勢力を伸ばすまでになりました。
 1570年代半ば以降には、全国平定の道を進む織田信長軍と播磨(兵庫県)から中国地方東部まで、瀬戸内海の覇権を巡って戦争を繰り広げていきました。

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