■解説 〜毛利輝元、戦国大名から豊臣大名へ〜

 1570年代後半以降、勢力の拡大を巡って現在の兵庫県から岡山・鳥取県地域、あるいは瀬戸内海を舞台として繰り広げられた、毛利輝元と織田信長との足掛け7年にも及ぶ戦闘は、天正10年(1582)6月、本能寺の変により信長が倒れることで転機を迎えました。当時備中高松城を攻撃していた織田方の羽柴(豊臣)秀吉は輝元と講和を結んで停戦状態となり、その後輝元は、事実上信長の後継者となった秀吉と交渉による領土の確定を進めました。その結果、同13年、現在の岡山・鳥取県西部以西の中国地方を獲得することができましたが、一方でこれに基づいて秀吉に対して軍役を務める(軍事力を提供する)という関係となり、毛利氏は、相対的に独立した権力であった戦国大名から、豊臣配下の大名となっていったのです。秀吉による天下統一のもとで、眼前の課題は、勢力の拡大から領国の経営へと移っていきました。

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