■解説 〜広島築城−城下町広島の誕生〜

 天正16年(1588年)、秀吉の要求により上洛した輝元は、その居城聚楽第(じゅらくだい)、ついで大坂城を目の当たりにしました。これにより輝元は、軍事拠点としての性格が濃厚である山城から、領国経営の拠点としての平城への転換の必要性を痛感し、郡山城に代わる城の築城を決意したといわれます。太田川河口の広島湾頭で築城工事が始まったのは翌17年早々のことと考えられていますが、わずか2年後の天正19年4月ごろには輝元が入城しており、相当の急ピッチで大規模な工事が行われたことがうかがえます。都市広島は城下町として産声を上げました。その後も輝元が慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの敗北により広島を追われる直前まで城下町の整備は続けられたようです。

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