■解説 〜広島城の修築と城下の整備〜

 福島氏は広島城と城下にも大幅に手を加えました。居城広島城については、入城早々家臣総出で改修に取り組んだことが伝えられています。毛利氏が築いた広島城に対し、どのような手を加えたのか、具体的にはよくわからない点が多いのですが、特に外郭部分を中心に、櫓の増築や堀の改修など防備を固める相当規模の工事が進められたようです。発掘調査の成果からはその実例と考えられるものも確認されています。
 城下も大きく様変わりしました。毛利時代には西堂(せいとう)川を境に東側が侍町、西が町人町とされていたのに対し、東側にも町人町を拡大させ、あわせてそこを西国街道が通るような町づくりが行われたようです。広瀬地区からは北へ向かって出雲・石見へ通ずる雲石街道を分岐させ、そこにも町人町を設けたほか、寺院を集中させた寺町を整備しました。以後明治維新まで250年以上続く城下町の骨格ができたのです。

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