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■安芸国広島城図 部分(広島城蔵)
 紙本彩色 江戸時代中期

 1701(元禄14)年の広島城修理に先立ち、幕府に許可を求めるため作成された絵図の控えです。大がかりな普請によって造られた堀に加え、自然の川の流れも堀として利用した広島城は、石垣と土塁(どるい)、数多くの櫓等で守り固められていたことがわかります。

 

●本丸と二の丸(安芸国広島城図部分)

❶ 二の丸❷表御門 ❸中御門❹平櫓と多聞櫓 ❺土塀❻内堀❼樋門

 

■曲輪(くるわ)

 城を構成する区画のことを曲輪といいます。曲輪の配置は城の守りを大きく左右するため、城の設計において重要なポイントでした。自然の地形を生かしつつも大がかりな土木工事を行った広島城では、本丸に馬出(入口の前面に作られた出撃のための空間)曲輪として二の丸(❶)をつけ、その周りを他の曲輪で囲むというスタイルが採用されました。

❶ 二の丸(内堀外南西から)

 堀外から見ると、入口には櫓付きの門を建て、石垣の上には櫓を巡らし、外部からの攻撃に対して非常に厳重な構えであることが見て取れます。

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■門

 城の守りを固めるために、その入り口となる部分には門が建てられました。特に重要な門は、両脇を石垣で固めその上に渡櫓をかける櫓門の形式がとられました。櫓門は攻守ともに優れた、堅固な防衛ラインとなりました。

❷ 表御門 復元(西側から)

 二の丸の入り口を守る表御門。侵入しようとする敵に対して櫓の上から攻撃を仕掛けることが可能でした。広大な広島城の中でも表御門から先は城の中枢にあたるため、平時においても人の出入りは厳しく制限されていました。

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❸ 中御門跡(二の丸から)

 本丸への入り口を守ったのは中御門です。中御門は二の丸に対面するようにではなく、二の丸からの進行方向右手に建てられました。
 本丸に侵入してきた敵は、門前で石垣に遮られ本丸内の見通しが効かず、先に進むためには向きを変える必要があります。方向転換し停滞する敵に対して、正面、側面、背面と三方向から同時に攻撃する仕組みになっていました。

 

❸ 戦災前の中御門

 今では門脇の石垣だけが残る中御門ですが、もともとは渡櫓を載せた城門でした。強度を増す目的で門柱や扉には鉄板が打ち付けられ、黒鉄門(くろがねもん)となっていました。

渡辺 襄 撮影
広島市公文書館 所蔵

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■櫓(やぐら)

 櫓は監視と攻撃に適し、内部に多くの兵士や兵器を収容することができました。櫓はいくつもの役割を合わせ持つ優れた軍事施設でした。
 広島城には数多くの櫓が建てられ、その数は88棟ともいわれています。西日本の近世城郭は櫓の数が多いのが特徴ですが、広島城はその中でも櫓の数では最多とされています。

❹ 平櫓(ひらやぐら)と多聞櫓(たもんやぐら) 復元(内堀外南東から)

 二の丸平櫓は二の丸の南西隅を守る隅櫓です。多聞櫓は平櫓と太鼓櫓(たいこやぐら)を一直線に結び、二の丸の南面に強力な防衛線を形成しています。

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■土塀(どべい)

 石垣の上の土塀は、侵入してくる敵の手掛かり足掛かりとならないように、石垣の外面からそのまま立ち上がるように掛けられました。こうして、城外から見ると石垣の高さも加わり立派な城壁を形成しました。ただ、塀本体は石垣の上に置いた木の土台の上に立てることになるため、内側から塀を支えて補強する控柱(ひかえばしら)が必須でした。

❺ 二の丸土塀 復元(内堀外西側から)

 二の丸西面は南面のように多聞櫓とはなっていません。西面は本丸南面からの見通しがきき、本丸側からの攻撃も可能な西面は、建設コストと攻守の効果のバランスを考えて土塀とされたのかもしれません。

❺ 二の丸土塀と控柱 復元(二の丸内側から)

 この土塀は雨除けのため瓦屋根を載せ下部を下見板張としています。土塀内側の控柱は下部を石柱にして途中で接ぐスタイルにしています。これは雨ざらしの控柱の強度をより長く保つための工夫です。
 下見板の中に見える△や□の小さな窓は、攻撃に用いる狭間(さま)です。狭間は天守、櫓、土塀と攻撃の必要が想定されるさまざまなポイントに設けられました。

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■堀・石垣・土塁 

 広島城の本丸と二の丸は、その全周に石垣を築き、水堀を巡らしました。水堀と石垣は近世城郭特有のもので、幅の広い水堀とそこから立ち上がる石垣は、その存在自体が強力な防衛装置でした。
 ただ、石垣は見た目もよく丈夫ですが、築くためのコストは高くつきます。このため、本丸と二の丸以外の曲輪については、櫓の土台となる部分は石垣を積むものの、櫓と櫓の間については、水際(みぎわ)あたりまでを石垣とし、その上に土塁を盛るなどする場合がほとんどだったようです。

広島城下絵屏風 右隻(うせき)部分(八丁堀界隈)(広島城蔵)
 六曲一双 江戸時代後期

 外郭南東隅と外堀の様子が描かれています。外郭では櫓と櫓の間には土塁が築かれ、その上に土塀が建てられていることが分かります。

 

❻ 内堀(内堀南西隅から本丸を望む)

 内堀は広いところで約50間(約100m)あります。築城当時の鉄砲で人間を殺傷できる距離は約30間(約60m)といわれていますので、鉄砲による堀外から本丸への直接攻撃は困難でした。

 

土塁(古写真「広島城三丸南門方面を望む」)
(徳川林政史研究所蔵)1864(元治元年)

 幕末に撮影されたこの写真には、広島城の土塁の姿が収められています。

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❼ 樋門(ひもん)(本丸北側)

 堅固の象徴ともいえる石垣ですが、実は弱点も持っていました。それは雨水です。石垣はその内部体積が大きいだけに、内部に雨水がたまり続けると、壁面のゆがみや張り出しにつながり、最終的には石垣崩壊を引き起こします。これを回避するため、壁面に樋門を設け雨水が抜けていく工夫がなされました。

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