■広島城下絵屏風(広島城所蔵)
紙本彩色/六曲一双 江戸時代後期 広島市指定重要有形文化財
この絵屏風は描かれている景観から、文化年間(1804~1807)頃に描かれたと推定されています。
作者や由来は明らかではありませんが、城下の東に位置する猿猴橋を起点に、西国街道を抜け、西は小屋橋(現天満橋)までを春夏秋冬の「四季絵」の形式で描かれています。
西国街道は当時のメインストリートだったため、沿道には多くの商家や家屋が立ち並び、そこをさまざまな人々が行き交っていました。広島城下ではそろわぬものはないといわれたほどの繁栄ぶりは、西国有数の城下町にふさわしいものでした。
●屏風の中の人や物
絵屏風には337人の人物と18匹の動物が描かれています。また、城下には様々な商店が立ち並んでおり、当時の生活の一端を見ることができます。ここでは、4つのシーンに分け、当時の暮らしぶりを象徴する人や物に焦点を当てて見てみましょう。
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(C)広島城 ※転載禁止
猫屋橋(現本川橋)を渡ると屋根や木には雪が降り積もり、冬の景色に彩られています。ところどころで年末を告げる門付の姿も見えています。また、猫屋橋両岸には、荷物を揚げ下ろしするための雁木があり、荷を運ぶ人や広島藩の御用のしるしである三引(みつひ)きの旗を掲げた船も見られます。
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一年の終わりを知らせる「節季候(せきぞろ)」と呼ばれる門付の人々です。深くかぶった編笠の上に裏白(うらじろ)をつけ、赤い覆面と前垂れをつけています。「せきぞろ、せきぞろ」とはやしながら家々を回り、米や銭を受け取っていました。
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●職人尽絵詞(節季候)(国立国会図書館蔵)
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彼らは「すたすた坊主」といい、寒い冬でも裸でしめ縄を腰に巻いただけの姿をし、頭から水をかぶります。商人たちは旧暦10月20日の胡講で「誓文払」という、商いの上でやむを得ずついてしまった嘘の罪を償うため胡(恵比寿)を拝み、商品を格安で奉仕します。「すたすた坊主」はそんな商人に代わって罪滅ぼしの代参をし、水垢離(みずごり)をしていました。
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店の前で、2人の子どもが獅子舞を夢中で見ています。現代にも受け継がれている獅子舞は、平安時代に宮中や寺社の行事の際に魔除けとして舞われていましたが、やがて大道芸としての役割も担うようになりました。
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猫屋橋を西に渡った場所は塚本町(現堺町)と呼ばれていました。そこに店を構える魚屋では、店の前にかごを並べ、奥に魚やタコをつるしています。その横の道は魚屋小路と呼ばれ、小路の入口にも台の上に魚が並んでいる様子が見られます。明治時代の『広島諸商仕入買物案内記并ニ名所しらべ全』には、塚本町魚店角にあった「料理仕出し飲食処」が紹介され、絵屏風と同様に活気ある様子が伝えられています。
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●『広島諸商仕入買物案内記并ニ名所しらべ全』中島傳助(広島市郷土資料館蔵)
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猫屋橋から元安橋周辺は、広島藩の船着場や米蔵があったことから、大店が集まる城下一の繁華街でした。元安橋を東に進むと、ずらりと店が並んだ通りへとやってきます。また、屏風絵上部には広島城の天守閣や武家町も描かれ、武士や町人などさまざまな階層の人が行き交っており、にぎやかな町の様子がうかがえます。
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元安橋東岸を少し北上したところに、大きな蔵が見えます。これは広島藩の米蔵で、その奥には入母屋造りの番所も設けられ役人らしき人も描かれています。城下町には何箇所かこのような米蔵が作られましたが、中でもこの地は西国街道にも近く水陸の便が非常に良い場所でした。大正4年(1915)には、この跡地に広島県物産陳列館が建設されました。
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白神壱丁目(現大手町1丁目)に幕府や他国の使者を接待する、御客屋という公設の宿泊所がありました。元は大商人の家々を借りていましたが、中でも最も大きかった商家が没落したため、そこを藩が買い上げ公設の客屋としました。
その後、藩は隣接していた海老屋久左衛門の宅地の一部も買い上げ、脇本陣として利用しました。絵屏風では、海老屋久左衛門の店に禁裡御用の菊紋の看板が掲げられ、奥に見える建物や松があるあたりが御客屋です。
なお、『広島諸商仕入買物案内記并ニ名所しらべ全』は明治時代のものですが、建物や庭園の様子は江戸時代の御客屋と変わらず、当時の名残を見ることができます。
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●『広島諸商仕入買物案内記并ニ名所しらべ全』三次貞四郎の店舗の座敷の様子(広島市郷土資料館蔵)
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絵屏風の中には馬や牛に荷物を運ばせたり、天秤棒などで物を運んでいる人の絵が描かれています。天秤棒で担ぐ人の中には、「振売(ふりうり)」という行商人もいます。振売の商品は食料品や生活用具などさまざまで、多くは都市近郊の農村に住む人たちでした。広島藩では、17世紀中頃に振売札運上(うんじょう)の徴収、つまり、売り上げの一部を藩に納めることになっており、行商という形の営業が盛んに行われていたことがわかります。
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●馬に荷物を運ばせる人 広島城下絵屏風 左隻部分
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この辺りは今の本通り商店街にあたるところです。筆やゴザ、人形といった日用品を扱う店や、青物屋、米屋といった食料品店など、多くの店が描かれています。
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右隻左側は、夏の風景が描かれています。道行く人々が暑い日差しをよけるため、笠をかぶっている様子もうかがええます。また、広島城の外堀である八丁堀や胡社も描かれています。胡町は反物や古着を扱った店が多く、つるされたり、畳まれた布がある店がいくつも見られます。
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江戸時代、広島藩の重要な産業の一つに和傘づくりがありました。広島の和傘づくりは、元和5年(1619)浅野長晟が藩主として和歌山から広島に入国した際、和歌山藩の傘職人を広島に連れてきたことから始まるといわれています。藩も積極的に和傘づくりを助成し、江戸時代後期の記録によれば、13万本もの傘を他国に移出し、城下の傘職人の数は幕末期には100人を超えていたようです。
絵屏風には、傘張屋のほかに「古傘買い」と呼ばれる壊れた傘を集める人も描かれています。江戸時代では物資が限られ貴重だったため、傘以外にも着物を仕立て直したり、羽釜や桶を補修するなど、さまざまなものを徹底的にリサイクルしていました。
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●古傘買い 広島城下絵屏風 左隻部分
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●長柄傘 広島城下絵屏風 左隻部分
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●和傘(複製)(広島市郷土資料館蔵)
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城下絵屏風には、杉玉を掲げた酒屋がいくつか描かれています。江戸時代、広島城下でも酒造りが行われていました。なかでも白神三丁目(現大手町2丁目)の「三原屋」は「当地第一の酒造家」といわれ、ほぼ江戸時代を通して広島城下を代表する酒造家(造り酒屋)でした。 絵屏風のこの部分に描かれているのは「伊予屋」という酒造家で、酒造と穀物商を家業とし、毎年酒が京都御室御所に献上され、その見返りに「千登勢」の酒銘と和歌を賜りました。
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●(参考)通い徳利(名勝平和記念公園遺跡広島平和記念資料館本館下地点)
当時、酒屋で酒を購入するには、買い手が持ってくる「通い徳利」に酒を詰め、持ち帰る量り売りが一般的でした。
大きな袋の形をした看板の店は薬種店です。看板に朱色の丸印の紋が描かれていることから、薬種を取り扱っていた横田屋四郎右衛門の店と考えられます。横田屋は代々町年寄を務めていました。『広島諸商仕入買物案内記記并ニ名所しらべ全』には、万代四郎右衛門という名で薬種を扱う店として紹介されています。
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●『広島諸商仕入買物案内記記并ニ名所しらべ全』万代四郎右衛門(広島市郷土資料館蔵)
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この部分は春の風景で、右隻の最も右側にあるのは東照宮です。広島藩浅野家2代藩主浅野光晟の祖父・徳川家康が祭られており、参道である桜馬場では桜が満開となっています。京橋を東に渡った京橋町には卯建(うだち)を構えた大店や寺院、猿猴橋を渡った先には現在の松原町の名の由来となった「いろは松」が描かれています。
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京橋川沿いの東柳町(現京橋町)には材木問屋が集まっており、川沿いに商いに用いられる材木が並んでいます。広島藩で材木は専売とされ、領内で伐採・搬出された木材や丸太などは白島にある「材木場」で管理していました。藩用材の収納や城下の材木問屋へ払い下げは材木場が行い、自由に商品化することが禁じられていました。
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城下絵屏風には、卯建が上がっている大店が描かれています。卯建は、家屋の2階部分に火事の延焼を防ぐ防火壁として造られました。卯建を上げるには費用がかかるため、これがあることは、それなりの地位や財力があることを示しています。「うだつ(=うだち)があがらない」という慣用句の由来とも考えられています。
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●写真 旧可部街道に並ぶ卯建のある家
これは、辻雪隠(公衆便所)です。城下絵屏風には何箇所かこのような辻雪隠が描かれています。当時の人々にとって、糞尿は貴重な肥料だったため、ある程度たまったら回収されていました。
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●下肥回収 広島城下絵屏風 左隻部分
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