■解説 〜長州征討と広島〜

 文久3年(1863)公武合体派の宮中クーデター「八月十八日の政変」により、京都から尊王攘夷派の公家や長州藩が追放されます。翌年、7月19日に失地回復のため上洛した長州勢は京都で禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)を起こすも、幕府側の勢力に大敗を喫します。逆に御所に砲弾を撃ち込んだ朝敵として、7月23日には朝廷から長州藩追討の勅書が出されます。
 8月2日には江戸城において、将軍徳川家茂が諸大名に長州藩追討を命じ、広島を長州征討の本営とすることが決まり、広島・小倉を中心に15万人の兵が長州藩を包囲しました。ここで長州藩は謝罪恭順の姿勢をとり、禁門の変の指導者であった長州藩の三家老を切腹させ、広島にいる総督に差し出し、戦争は寸前のところで回避されました(第一次長州征討)。
 元治2年(慶応元・1865)幕府は長州処分が寛大過ぎたとして、将軍徳川家茂自らが長州再征討のため江戸城から大坂城に出陣し、再び諸藩に出兵命令を出します。こうした中、広島藩は開戦阻止と長州への寛大な処置の周旋に動きますが成功せず、大島口を皮切りに戦闘が開始されます。兵力としては圧倒的に不利な長州藩でしたが、西洋式戦法に習熟し、優れた西洋銃を装備していたため圧勝で終わりました(第二次長州征討)。
 この第二次長州征討の敗北により、幕府の権威は失墜し、倒幕の動きが加速します。

×閉じる