×閉じる

■浅野長勲と広島藩

 浅野長勲(天保13年(1842)~昭和12年(1937))は、文久2年(1862)浅野本家の養子となり、広島藩世子(※1)として、慶応2年(1866)の第二次長州征討に際しては、長州への寛大な処置を願い幕府と交渉を行います。
慶応3年(1867)9月には、薩摩・長州・芸州の3藩で武力倒幕の出兵盟約に長勳は同意します。一方、10 月3日の土佐藩に続き、広島藩も幕府に大政奉還を勧告します。
武力倒幕と大政奉還論の間で、大きく揺れ動いた広島藩の中で奔走したのが世子長勳でした。
王政復古の大号令の直後の小御所会議では、議定(ぎじょう)の一人として参加し、会議の仲裁を行い、徳川慶喜の辞官納地(※2)が決定します。
明治2年(1869)に長勲は、広島藩最後の藩主となり、版籍奉還により知藩事となります。同4年(1871)の廃藩置県で免官され、東京へ移り住みます。以後、元老院議官、イタリア公使、宮内省華族局長官を歴任し、同23年(1890)からは貴族院議員を務めました。

注:浅野長勳は、浅野長訓の養子になった際、将軍徳川家茂より一字を与えてもらい、茂勲(もちこと)と名乗った。明治元年、明治新政府に恭順を示すため、将軍からもらった茂勲から、長勲に改名した。
※1 世子(せいし) 藩主の跡継ぎ
※2 辞官納地(じかんのうち) 慶喜の官位である内大臣の辞職し、幕府領を朝廷へ返納

浅野長勲(天保13年(1842)~昭和12年(1937))

 

■浅野長勲御諭書(あさのながことおんさとしがき)(写)(広島県立歴史博物館蔵)
紙本墨書

 明治4年(1871)の廃藩置県により、12代藩主浅野長勲が藩知事を罷免され東京への移住を命じられます。その際、領民の動揺を鎮めるために出した諭書です。しかし、領民の不満が旧藩主の東京移住の阻止という形で噴出し、領内各地で一揆が勃発しました。この一揆は、嘆願書を起草したと言われる農民 武一(ぶいち)の名前をとり、「武一騒動」と呼ばれました。  浅野長勲御諭書の内容は 藩が廃止され、自分も知事を免職となるのは、皇国(日本国)のためで、どこの藩でも同じであり、広島だけのことと勘違いしないようにと説き、昔の慣習や考えにこだわることは、皇国に対して恐れ多いことであり、今回の改革は万民を慈しみ育てようとする趣旨であることを心得るように諭しています。

今般藩を廃し県と被成、知事免職被 仰付候、御深意ハ皇国之御為諸藩一般之事ニ付、広島のみの義と心得違疑惑等いたし候而ハ不相済義ニて、若しや旧習旧情ニ泥ミ万々一不都合之所行有之候而ハ皇国へ対し恐入候事と相成のみならす、我等是迄不及なから其方共引立忠節相尽度、志も空敷相成候間、聊旧来之恩義を思ひ呉候ハヽ、益 朝旨遵奉御趣意貫徹候様、精々相心掛可申只管頼入候、将又今般御改制之義ハ万民御撫育の御趣意ニ候間、何れニも迷を不生奉報 天恩候義専一ニ相心得可申候事

七月廿日 正二位浅野長勲
   広島県御管内
        士族
        卒中
        平民

浅野長勲御諭書

×閉じる