げ た
下駄
(広島城外堀跡城北駅北交差点地点出土)
下駄
  紹介する下駄は、台と歯が一体でつくり出された連歯(れんし)下駄で、長さ21.9cm、幅7.9cm、厚さ2.9cm、歯と歯の間隔が広く、台の幅も広いことから男物と考えられます。下駄が出土した広島城北側の外堀は、毛利時代にもともと川だった箇所を福島時代に「堀」として整備されたと言われています。遅くとも江戸時代初期に浅野氏が入城して間もない頃の広島城を描いた絵図に記されており、その後明治時代末に埋め立てられるまで存在していました。
 広島市域においては、江戸時代初期から高宮郡の諸木
(もろき)村、下駄末光(すえみつ)村、玖(く)村、岩上(いわのうえ)村(いずれも現安佐北区落合)一帯を中心に下駄づくりが盛んに行われました。明治時代には、落合地域で生産された下駄は「玖村下駄」の名で知られるようになります。やがて八木村(現安佐南区八木)や広島市内でも下駄の生産が盛んとなり、明治末期から大正時代に最盛期を迎えました。しかし、戦後になると、生活様式の変化に伴い下駄の生産量は減少し、広島市域での下駄づくりは衰退していきました。
 あらためて下駄の表面をよく観察してみると、足指のあとが残っており、実際に下駄を使っていた人の息遣いが伝わってくるようです。
【写真右:足指のあと(点線部分)が残る下駄の表面】


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