県指定無形文化財 一国斎高盛絵(いっこくさいたかもりえ) |
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高盛絵は、木や竹の素材に描いた下絵に、漆を何度も塗り重ねて厚みを出し、その上に彩色して文様を立体的にあらわすという大変に手のこんだ手法の工芸品です。これは、漆絵・蒔絵の絵画的な面と、堆朱・堆Kの彫刻的な重厚さが同時に表現できるという特徴を持っています。 |
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その技術は、歴代一国斎がそれぞれの創意工夫を加えながら一子相伝で受継がれ、現在七代目金城一国斎池田昭人氏に受継がれています。 一国斎の名を最初に号したのは、尾張の藩士中村市郎右衛門という人物だと伝えらえています。彼は、漆器、金蒔絵(※1)の技術に優れており、名古屋城にちなんで金城一国斎と称したと言われています。 その子一作義之もこの技術を受継ぎ、さらに技を磨くためとして藩を脱し、各地を巡りました。そして鎌倉や長崎では、外国人に学び、やがて漆を厚く塗り山水、花鳥などの模様を彫刻する技法(堆朱、堆黒)や、存星塗(※2)という中国の技法などを身につけ 、これらをまとめて高盛絵の技法を考え出したと言われています。 ある年、義之は眼病を患って広島の名医のもとを訪れ、そのまましばらく江波村(中区江波)に滞在することとなりました。この時、隣家に住んでいた木下兼太郎(のち池田と改姓)の才能を見出して弟子とし、高盛絵の技術を伝えることとしました。 弟子となった兼太郎は、15歳のときから10年間ほど師義之について各地をまわった後、安政2年(1855)9月広島に帰りました。金城一国斎の名を継ぎ、三代目を名乗った兼太郎は、みずからも数々の工夫を加えるなどして、すぐれた作品を作り出しています。 明治時代になると、一国斎高盛絵は美術品としても高い評価を得るようになり、皇室に花瓶を納めたことなどもあって、広くその名を知られるようになりました。 ※1 金蒔絵 漆と金粉などを用いて絵模様をあらわす技術 ※2 存星塗 色漆で模様を描き、線刻した輪郭に金箔を埋める技法 |
「広島市の無形の文化財」広島市教育委員会編より文体変更。 |
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