史跡 頼山陽居室跡(らいさんようきょしつあと) |
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この居室は、安永9年(1780)大阪に生まれた頼山陽が少年期を過ごし、また『日本外史』(※)の草稿をまとめた場所として知られています。 山陽の父春水(しゅんすい)は、竹原の豪商の家に生まれましたが、漢詩文に優れ、大阪に遊学して朱子学者として名を高め、広島藩学問所に登用された人物です。当時、経済の発達によって富を蓄えた町人や農民の一部は、学問や芸術の分野でも力を発揮し、この春水のように学者として名を成す者もいたのです。 春水の長男として生まれた山陽は小さい頃から詩文の才能を示し、歴史に深い興味を持っていました。21歳の時、春水が江戸に詰めている間に脱藩し、京都に向かいますが、心配した叔父の春風(しゅんぷう)や杏坪(きょうへい)によってすぐに連れ戻され、袋町の居宅に5年間幽閉されました。有名な『日本外史』を書き始めたのはこの時のことと言われます。 文化2年(1805)、監禁を解かれ、神辺の管茶山(かんちゃざん)のところへ身を寄せた後、文化8年(1811)には京都に出て、三条東山の近くに塾を開きました。その後は、儒学者、文人として名をあげ、天保3(1832)に没するまで数々の書物を著しています。 ※文政9年(1826)、25年の歳月をかけて完成。全22巻に及び、源平二氏から徳川氏までの武家の興亡をまとめた歴史書。朝廷を尊ぶ尊王思想は倒幕運動に大きな影響を与え、幕末の志士たちの必読書とされました。 |
「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。 |
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