歴代藩主に愛好された名園 元和5年(1619)に福島正則が信濃国川中島に移封された後、紀州和歌山から浅野長晟(ながあきら)が新しい広島藩主として入国しました。この縮景園は、その翌年、浅野家の別邸として造られたもので、「泉邸(せんてい)」の名でも親しまれています。 長晟の命を受けて築庭にあたったのは、当時の家老で、茶人としても名高い上田宗箇(うえだそうこ)でした。彼は中国浙江省の西湖の風景をまねて庭を造り、そこから「縮景園」の名が付けられたと言います。 この庭園は、歴代の藩主に愛好されており、たとえば、五代藩主吉長は、正徳3年(1713)にここへ赴き、邸内の山、池、建物、橋、島などにそれぞれ雅名を付け、堀南湖に命じて、『縮景園記』を作らせています。さらに七代藩主重晟は、天明3年(1783)に京都の庭師清水七郎右衛門を招いて、中国風太鼓橋「跨虹橋(ここうきょう)」を作るなど、大幅な改修を行って庭園の景観を整えました。その後も寛政12年(1800)、文化元年(1804)、文化五年(1808)などに庭園の整備拡張が行われています。このように数次にわたる手入れによって、長晟の時代にはまだ小規模だった庭園も、面目を一新したと伝えられています。 変化に富む回遊式庭園 庭園の造りは、「濯纓池(たくえいち)」と呼ばれる中央の池を跨虹橋によって二分し、茶室や小亭、山、川、島などを巧みに配置し、それらを連絡する園路によって庭内を回遊することのできる回遊式庭園になっています。これは、江戸時代の諸大名の大庭園に多く見られる形式です。また、縮景園の地割りは、実際の面積よりも大きく感じさせるように工夫されており、北の二葉山(東区)、西の己斐山(西区)の姿を借景としてうまく取り入れ、奥行きを出しています。各部分の変化は、あるいは深山幽谷、あるいは広々とした海浜を思わせ、四季の風物の赴きも深いものです。 園内の東の一画にある「有年場」には、小さな田が4枚あり、藩主がここで米を作って藩内の作柄を知ったと言われています。その他400種種以上の薬草が植えられた薬草園や、射場、馬場なども設けられており、ただ観賞するためだけの庭園ではなかったことがわかります。 市民にも親しまれる縮景園 明治以後も、縮景園は引き続き浅野家の別邸とされました。明治27年(1894)に大本営が広島城内に置かれた時には、ここが副営となり、園内の清風館は明治天皇の居所にあてられています。大正2年(1913)、園内に観古館が設置され、観賞が許されるようになり、さらに昭和14年に浅野家がこの庭を広島県に寄付してからは、広く一般に開放され、市民になじみ深いものとなりました。 昭和20年、原爆によって建物や樹木などは、ほとんど失われました。しかし昭和26年4月には、復旧に努めながら再び開園し、昭和37年頃から本格的な復旧が始まりました。その後、昭和39年には清風館を、昭和49年には数寄屋造りの茶室名月亭が復元されて、ほぼ昔の姿に返っています。