市指定重要有形文化財
馬印(うまじるし)
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名称 馬印(うまじるし)
指定年月日 昭和58年3月24日
概要 高さ146cm、笠直径59cm、唐人笠形
下地竹網代金箔塗、柄欠失
所在地 中区基町21-1広島市(広島城保管)

  馬印は「馬験」とも書き、戦場において武将のいる所を示すために作られたものです。長い柄の先に目立つ飾り物をつけ、これを大将の馬前や馬のそばで従者が持って、目印としていました。
 馬印は戦法の変化にともなって登場したものです。もともと日本の武士の戦い方は、一騎討ちを主体とした個人戦闘が主でした。ところが鎌倉時代の元寇の時、元軍の集団戦法にさんざん苦しめられたことをきっかけに戦闘法が変わってきたと言います。特に戦国時代に入り、織田信長が活躍する頃になると野戦が多くなり、鉄砲や長槍の足軽隊を中心とする集団戦法が主となってきました。
 野戦では、いかに群兵を動かすかが重要な勝敗の決め手になります。そこで本陣の位置、大将の居所を明示し、群兵を動かす目当てをはっきりさせることが必要となってきました。こうした状況の中で、さまざまな指物(*)とともに馬印が作られるようになったのでしょう。
 いずれにしても馬印は目立つことが大切でしたから、武将たちはそれぞれ工夫をこらしていたようです。たとえば織田信長の升形に金の切裂、豊臣秀吉のひょうたんに金の切裂、徳川家康の七本骨の金の開き扇などが有名です。
 この馬印は、浅野幸長が朝鮮侵略の際に使用したものと言われています。銃痕も残っており、合戦の激しさを生々しく伝えています。
 *戦場での目標とした小旗、または飾りのつくりもの
■豆知識■

上田宗箇(うえだそうこ)
  安土桃山時代末期かち江戸時代初期に活躍し、数々の武勇伝を残した武将で、浅野芸州藩初代の家老です。
 彼は元禄6年(1563)、尾州星ケ崎(名古屋市南区)に生まれましたが、早く父を失い祖父によって育てられました。20歳の時には、本能寺の変で明智方についた織田信澄の首を打ち、早くも勇名をはせています。天正13年(1585)には豊臣秀吉に見い出され、以後側近として活躍し、越前国に一万石を領有するほどになりました。さらに、東大寺大仏殿造営をはじめ、土木建築事業にも力を発揮し、秀吉から豊臣の姓を授けられるほど大きな信頼を得ていました。またこの頃、茶人としても名をあげて千利休の茶会に参加したり、古田織部正について茶道を学び、それを継承しています。
 秀吉が没して2年後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利をおさめます。宗箇は敗れた石田三成方についていたため、逃れて阿波国の峰須賀家や、妻の叔父たあたる紀州の浅野幸長のもとに身を寄せました。この間に彼は、徳島城下の千秋閣庭園、和歌山粉河寺庭園、和歌山城西之丸庭園など数々の名庭を築き、作庭家として手腕を発揮しています。
 元和元年(1615)、大坂夏の陣が起きると、宗箇は浅野長晟に従い徳川方として参加しました。この時数々の功績をあげ、関ヶ原の戦いで西軍に味方した非を徳川氏かち許されました。
 その4年後、宗箇57歳の時、浅野長晟が広島に移されるのに従って、彼も家老として広島に移住し、亀居城(大竹市小方)を預かりました。翌年の元和6年(1620)には長晟の命により藩主の別邸築造の指揮をとりました。これが現在の「縮景園」です。
 その後、領内の浅原村(佐伯郡佐伯町)に退いて草庵を営み、茶の湯に没頭して余生を過ごし、慶安3年(1650)5月1日、88歳の生涯をとじました。彼の茶は、武将らしい豪放さと漢学の素養に包まれていたと音われ、その流れは、今も茶道上田宗箇流として受け継がれています。

「広島市の文化財」広島市教育委員会編より。

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