平成17年6月14日(火)〜中区上八丁堀の「広島城跡 法務総合庁舎地点」で発掘調査がはじまりました。この遺跡からは、江戸時代の武家屋敷跡や堀の様子がわかり、当時の人の暮らしぶりが、よりクローズアップされることでしょう。
「えっ?こんな街中に遺跡が?」と驚かれる方も多いでしょうが、こんな身近なところにも、埋まっているのです。広島城跡に関する調査は、すでにたくさん行われ、多くの成果を出しています。
法務総合庁舎地点の発掘調査は始まったばかりですが、期待しましょう!!
<2005年6月17日>
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真っ青な空のいい天気の日でした。 街中の景色の中に、発掘現場があります。 |
堀か石垣かはまだわかりませんが、石積みの跡が出てきました。板を使って上げていきます。 がんばれー! |
<7月11日>
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今日は、遺構の実測です。遺構の出土状況を詳細に記録していきます。 | 実測のために、機械を設置する櫓を組んでいます。 |
<7月14日>
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明治時代以降の溝が出土しました。広島城の外堀をせばめ、排水溝として使ったものと考えられます。 |
<8月3日>
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だいぶん、発掘調査現場らしくなってきました。穴の底のほうを掘ると水が出てくる部分もあります。 | 出土したものの説明をし、掘り方を指示しています。何を調査しているのかを知ることはとても大切なことです。 |
<11月4日>
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何の溝でしょうか? | 廃棄された土の穴から陶磁器やかわらが出土しました。ゴミ穴を掘って埋めたのでしょうか? |
<12月17日>
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冬の吹雪の日に、青空ミュージアム(現地説明会)をおこないました。荒天にもかかわらず多くの方にきていただき、「こんな街中にも遺跡があるんですね」という声が多くありました。 | 出土した遺物です。まだ、クリーニングが終わって いませんが、人骨も出土し、展示していました。 |
<2006年1月24日>
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現在の様子です。 | またまた井戸が出土しました。冬に井戸の調査はつらい・・・ |
<2006年5月23日>
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ごみ穴の底から黒いうるし塗りのお椀が出ました。鮮やかな赤い模様に思わず感動… | この横ひと筋に入るだいだい色の層は、焼け土です。昔ここで火事があった痕跡でしょうか? |
<2006年6月7日>
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前回ご紹介したうるし椀の下から、今度は石がたくさん出ました。この穴の謎は深まります… | 溝の底に、玉石がびっしりと、ていねいに敷きつめられていました。いにしえ人の細やかな心まで伝わってきます。 |
<2006年6月17日>
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前々回からご紹介している穴の発掘の様子です。どんどん湧き出す地下水と泥をすくい出しながらの、大変な作業となりました。そして、ついに底から、江戸時代初めごろの陶器など、貴重な資料が見つかりました。作業員の皆さん、本当にありがとうございました! | ちょうど1年前の昨年6月から始まった、この遺跡の東側3分の1の発掘調査が、いよいよ完了間近となりました。写真中央の縦長の穴は、そこで最後に見つかったものの一つです。底にある平たい石は、柱をすえる台だったのかも知れません。それは、現在の地面より2m以上もの深さに眠っていました。 |
<2006年7月13日>
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ひとかかえもある大きな甕(かめ)が、ほとんど完全な形のままで、土の中からいくつも姿を現しました。実は、これらは、ものを蓄えるためなどに使われたらしい甕で、もともと、口の部分を残して埋められていたものなのです。昔の人々の日々の暮らしを、足元でそっと支えていたのですね。 | |
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これは何でしょう?みなさんの家の台所にもきっとあるのでは?そう、擂鉢(すりばち)です。昔の擂鉢は、赤っぽくて厚く、がんじょうそうですね。力を込めて、一生懸命すっている人の姿が目に浮かんできませんか?この遺跡では擂鉢がたくさん見つかっていて、当時の暮らしに欠かせない道具だったことが分かります。 | このお皿、どこか今どきのセンスを感じる絵に、つい目が留まりました。よく見ると、割れた部分を何かでくっつけて直してあります。これは焼継(やきつぎ)という修理法で、熱で溶かしたガラスを割れたところにぬり、それが冷えて固ることで接着しているのです。きっと、お気に入りのお皿だったのでしょうね。 |
<2006年7月29日>
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2006年5月23日付けでご紹介した、火事の痕跡かも知れない、赤い焼け土の層。今、発掘調査は、この層へと進んでいます。上の写真は、その表面の一部の様子です。 実は、この層を発見したとき、すぐにある歴史上の事件が思い起こされました。それは、今から約250年前に起きた「宝暦の大火」(宝暦8=1758年)です。当時の広島城下町の東半分が、3日間でほとんど焼けてしまったほどの大火災でした。この遺跡のある場所の辺りも、その被害を受けています。 焼け土ばかりか、大量の炭を埋めた大きな穴がいくつも見つかっていて(右上の写真はその一つ)、ますます、これらが「宝暦の大火」の爪跡である可能性が高まってきました。 遠い昔に起きたおそろしい災害の記憶が、発掘調査で生々しくよみがえったのです。 |
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上の写真は、炭を埋めた穴から見つかった鎹(かすがい:材木同士をつなぎとめる金具)です。火事で焼けた建物に使われていたのでしょうか? |
<2006年8月21日>
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石が一方の面をまっすぐそろえてならべられています。武家屋敷にあった建物などの境を示すものかも知れません。 | この石で囲ったものは、地下の貯蔵庫かも知れません。高さ・幅が50cmほどもある大きな石も使われていました。他にも、石を用いた遺構がいくつか見つかっています。それらの本当の役割についてはまだ調査中ですが、当時の武家屋敷の姿を復元するための、大きな手掛かりとなることでしょう。 |
<2006年9月28日>
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(上)おや、なぜ発掘現場にパワーショベルが?実は、江戸時代の遺跡を壊して現代に掘られた大きなゴミ穴から、そこに埋められたコンクリート片などを除く作業をしているところなのです。街中での発掘らしいですね。 | |||
(右)黙々と続く発掘調査。まわりのビル達は、何を思いながらその様子を見ているのでしょうか… | |||
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現在の発掘現場の様子。都市広島の地下に、確かに、その礎となった近世の広島が眠っていました。1ヶ月後の10月28日(土)〔雨天の場合翌29日(日)〕、これまでの調査の成果を紹介する説明会を発掘現場で開催します。(※詳しい内容はイベントのページで紹介しています)地中に眠る「もう一つの広島」に、皆さんをご案内します。 |
<2006年10月13日>
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この穴の真っ黒い泥の中から、キラリと光るものを発見。洗ってみると、金色の見事な蒔絵が現れました!この遺跡で初の出土です。当時ここに住んでいた高い身分の武士が使っていたのかも知れません。 | |
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深い深い穴でした。江戸時代の初め頃、使わなくなった井戸を、貝殻などのゴミ捨て場にしたものです。 | 他にも何か出てくるかも!泥と遺物とを分ける作業員さんたちにも自然に熱が入ります。 |
<2006年10月28日>
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10月28日、発掘調査現地説明会を開催しました。9時30分の開場と同時に、たくさんの見学者がやって来られました。 | さわやかな秋晴れの下、見学者は絶えず、約800人が訪れました。 |
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宝暦の大火の焼土のところでは、皆さん特に興味深そうに説明に聞き入っておられました。 | 出土遺物に見入る皆さん。遺跡を通じて、多くの人に、広島の生の歴史に触れてもらうことが出来ました。 |
<2006年11月10日>
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またまた土の中からキラリと金色に光るものが!刀の切羽(せっぱ:つばの両面の、つかとさやが接する部分に当てる金具)のようです。さぞきらびやかな刀だったでしょうね。 | なんともユニークな土人形ですね。大黒様が大きなネズミに乗っています。ネズミは大黒様の使いとされる動物ですが、それにしてもこの表情、どこかホッとしませんか? |
<2006年11月17日>
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なんて素敵なお椀(ふたの方です)でしょう!この遺跡で見つかったお椀の中でも、絵柄の優美さでは文句なしにナンバーワン。思わず見とれてしまいました。内側の赤色も鮮やかに残っています。まだまだどんな遺物が出土するか、この遺跡からは目が離せませんね! |
<2006年11月24日>
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@泥の中から、植物で編んだむしろの様な遺物が出土しました。すっかりグニャグニャになっていて、そのまま泥からはがしたら、たちまち分解してしまいます。どうしたら無事に取り上げられるでしょうか? | Aまず、遺物のまわりの泥を掘り下げます。そのあと、遺物の下の泥をワイヤーで上下に切り離しました。でも、このまますぐに持ち上げると、泥と一緒に遺物も崩れてしまいます。 |
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Bえっ、燃やしてるの!?いえ、実は、ごぞんじ液体窒素をかけているのです。煙に見えるのは、液体窒素が気化した蒸気です。たちまち、遺物が泥もろともカチカチに凍って行きます。 | C見事に凍ってしまいました。これなら、持ち上げても大丈夫! |
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D板の上に乗せて、穴の底からどっこいしょ。大事な遺物がこわれない様に、最後まで気が抜けません。 | E特製の箱に収めて、ひとまず完了。いつの頃のものか?どんな植物でどんなふうに編んだのか?何に使われたのか?謎ときはこれからです。 |
<2006年12月7日>
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井戸の中の泥から、金色の模様が輝く櫛の一部が見つかりました。こんな美しい櫛をどんな人が使っていたのでしょうか?想像がふくらみます。 | こちらは刀の鍔です。青い錆が出ているので、銅製の様です。 |
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小さな豆粒のようなものが見つかりました。土を洗い流してみると、何と焼き物の鈴でした。中の玉もそのまま。広い遺跡の中で、こわれもせず見つかったのは奇跡のようです。振ってみると、カラカラと乾いた音が、澄んだ冬の空気に鳴り響きました。発掘調査とは、時を越えた出会いなのです。 |
<2006年12月26日>
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この発掘調査も、二度目の年の瀬を迎えました。寒さもそれほどではなく、調査は順調に進んでいます。写真は礎石(建物の柱を据える石)がいくつも並ぶ様子です。写真の上が南、下が北で、これらの礎石がほぼ東西南北方向に配列されているのがはっきり分かります。そして、これらはまさに、今日の広島の“礎”そのものなのです。 |
<2007年1月11日>
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年明け早々、巨大な穴が発見されました。左の写真は、トレンチ(遺跡の断面を観察するために掘った溝)に現れた、この穴の断面の一部です。東西に約6mもあります!あまりに大きくて、その範囲をさぐるのにみんなで大わらわ(下の写真)。果たして、この穴の正体とは?その発掘の様子はまた紹介します。乞うご期待!! |
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<2007年1月19日>
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前回ご紹介した巨大な穴の発掘が進んでいます。まず、格子の様にあぜを残しながら掘ります。こうして小さく区分けをし、あぜの側面で土の堆積の様子を観察しながら、慎重に掘っていくのです。 | この穴の断面の一部です。底の方には、黒やグレーなどの色をした層が何重にも堆積しています。こうした層を観察することで、この穴がどこまで広がっているのか、また、どの様に埋まっていったのかなどが分かります。もちろん、下の層ほどより古い層です。 |
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この穴から出土した溝縁皿(みぞぶちざら)。このタイプは江戸時代初め(17世紀初め)頃に、現在の佐賀県の辺りで作られたものと考えられています。この穴が使われていた年代を探る一つの手掛かりです。また、これまでに、箸や下駄などの木製品も出土しました。 | 少しずつ、この穴の全体の姿が明らかになってきました。まるで、完了に向かうこの遺跡の発掘調査と機を一にするかの様に、その発掘が進んでいきます。 |
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その他にも、興味深い遺構が見つかっています。これは炉跡の一部と考えられます。 | この井戸は木枠が二重になっていて、外側の木枠の周りは漆喰で固めるという、とてもていねいな造りになっていました。その左側は、井戸よりも古い時期の溝です。 |
<2007年1月25日>
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この遺跡では、いくつかの井戸跡の底から、なぜか、櫛やかんざしといった女性の髪に関わるものが発見されています。最近も、金色のかんざしが、二つの井戸跡から相次いで見つかりました。水を汲んでいるとき抜け落ちてしまったのか、それとも、何かの目的で故意に沈めたのか、理由は謎です。そのとき、井戸の水面には、どんな表情が映っていたのでしょうか…。そして今、貴重な資料として、それを手にしている私たち。過去と現在の二つの思いを映しつつ、井戸跡からは今なお水が湧き出しています。 |
<2007年2月1日>
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1月11日から紹介している、あの巨大な穴の底には、腐った植物が、黒い層となって厚く堆積していました。そこには、木製品を中心とした数多くの遺物が混じっていました。大勢の作業員さんたちが、その大量の腐った植物の中から、けんめいに遺物を探し出してくれました。 | この層から、昔のお金が見つかりました。右は永楽通宝、左は寛永通宝です。永楽通宝は15世紀初め、中国の明という国でつくられたお金で、日本にも伝わって使われました。寛永通宝は江戸時代の寛永13(1636)年以降、幕府が発行したお金です。寛永通宝の登場によって、永楽通宝の様な、中世から使われてきた中国製のお金は、次第に使われなくなりました。この巨大な穴は、そうした日本のお金の歴史の節目にも立ち会った様です。 |
<2007年2月2日>
「バンザーイ!!」みんなで声を一つに叫びました。昨年の6月以来、1年8ヶ月にわたって行ってきた、この「広島城跡法務総合庁舎地点」の現地発掘調査が、ついに完了したのです。最後に残ったのは、遺跡の下に広がる自然の地盤。私たちの調査もここまでです。この遺跡で発見された数々の遺構や遺物は、原爆などで多くを失った広島の歴史を知る上で、どれもかけがえのない証人です。最後に、暑い日も寒い日も、全力で調査を支えて下さった作業員さんたちをはじめ、ご協力をいただいた皆様、そして、この日誌をご覧いただいた皆様、本当にありがとうございました。 |
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(完)