■解説 〜幕藩体制の終焉と広島藩〜
嘉永5年(1852)、米国のペリーが浦賀に来航し開国を迫り、翌年に日米和親条約を調印したことから開国派と尊王攘夷派(※)に国論は二分されます。安政5年(1858)、大老井伊直弼が不平等な日米修好通商条約に調印し、反対勢力を弾圧したことで、暗殺され(桜田門外の変)、幕府の威信が失墜します。幕府は威信回復のため、天皇家と徳川家の婚姻による公武合体を実現させ、京都で尊王攘夷派の公家や長州藩を一掃します。
失地回復をねらう長州藩は兵を挙げて上洛しますが敗北し(禁門の変)、幕府から朝敵とされ、長州征討が行われます。結果として幕府が大敗し、一気に倒幕の流れが加速していきます。慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古の大号令により江戸幕府は終わりました。
幕末の広島藩も大きく揺れ動きます。長州征討では城下が前線基地となり、幕府と長州の関係調整を行うも成功せず、幕命に反して芸州口の先鋒を拒否します。その後も、武力倒幕と大政奉還論の間で揺れ動き、曖昧で日和見的な態度の藩として見られてしまい、明治新政府の中核には加われませんでした。
※ 尊王攘夷(そんのうじょうい) 天皇を尊び、外国人を排斥する考え