■解説 〜広島の「文明開化」〜

 政府の様々な政策は、民衆の生活にも大きな影響をおよぼしました。広島の「文明開化」の先例として、当時の日記に県庁のことが記されています。明治4年(1871)の廃藩置県で成立した広島県は、広島城本丸に設置した県庁を同年10月に三の丸に移転していますが、その際に畳敷きから板の間に改築し、椅子に座って机について業務に従事することになりました。職員の服装は、洋服に靴を着用し、断髪、脱刀が命じられ、西洋化を進めています。
 食べ物で大きく変わったのは、肉食の普及です。明治5年(1872)には、旧広島城下で「牛肉煮売」があったことが記録されており、明治初期から広まっていたことがうかがえます。同年7月、県は病牛等の販売を禁止し、江波での屠牛会社の創業を許可しています。また、搾乳・種牛繁殖のための官立養牛舎も設立され、牛乳も広く飲まれるようになっていきます。明治19年(1886)に広瀬村(現在の広島市中区広瀬町)で創業する広島ミルク会社(現在のチチヤス株式会社)へとつながっていくきっかけとなりました。
 町の様子も変わりました。明治10年代から銀行や保険会社の洋風建築物が建ち並びはじめました。また、飲食店が四階、五階建ての高層店舗を構えることが流行し、旧来の和風建築と洋風建築物が並ぶ様子が見られました。

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