■解説 〜学校教育制度〜

 政府は、富国強兵政策を進める一環として、学校教育制度の整備に取り組んでいきました。
 明治5年(1872)に、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である「学制」が公布されました。学問は社会で生きていくための基礎を養うものであるとし、身分や性別の区別なく国民皆学を目指すことが示されています。全国を8大学区に分けて区ごとに大学校を置き、1大学区を32中学区に分けて区ごとに中学校を置き、1中学校区を210小学区に分けて区ごとに小学校を置くことが定められていました。
 「学制」によって、全国各地に小学校を普及させるなど一定の成果をあげることができましたが、小学校を設立・維持していく費用負担は重く、区町村の財政を圧迫しました。また、授業内容が民衆の生活実態と一致していなかったことから、民衆の反感を買う結果となりました。当時の文部省は、このような教育事情を反省し、民衆の生活現実と小学校教育との一致を図るため、明治12年(1879)に学制を廃止し、新たに教育令を定めました。
 しかし、私立小学校があれば公立小学校の設立を免除したほか、実際の就学義務は4か年のうち16か月以上と緩和したため、地方の小学校教育は衰退しました。明治13年(1880)に、教育令を改正して再度国家管理を強化しました。明治18年(1885)には、「教育はすべて国家のため」という指針を示し、教育令に替わる小学校令を公布し、教育の全国統一・中央集権化を制度化しています。

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