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■明治時代の新規架橋一覧(『新修広島市史』 第3巻 をもとに作成)

 近世までは軍事上の理由から架橋が制限され、多くは渡し舟が用いられていました。明治になって架橋の制限がなくなったことで橋の整備が急務となりますが、財政難のために整備が進みませんでした。
 明治4年(1871)、自費または会社を組織して道路をつくり、橋を架けたものには年限を決めて、通行料を取ることを認めるという太政官布告が出されたため、地域の民間有志で寄付を集め、渡橋賃を徴収する「銭取り橋」とも言われた有料橋の建設が進みました。
 明治22年の市制施行以後も、栄橋や住吉橋など太田川デルタに新たに橋が架けられていきますが、経費の半分ないし三分の一を民間の寄付に頼らなければならない状況にありました。

明治時代の新規架橋一覧(『新修広島市史』 第3巻 をもとに作成)

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