■解説 〜広島の交通機関の発達〜

 経済発展と生活領域の拡大による近代化推進のためには、遠距離の移動や大量の物資輸送が不可欠でした。明治時代初期の広島は、太田川デルタ内の河川を主に渡し舟で通行し、渡し舟を使用せずに東西に通過できるルートは、江戸時代に整備された西国街道(山陽道)だけでした。そのため、人力車や荷車のような軽車両を運用することが難しく、交通の近代化は喫緊の課題でした。
 明治10年代に入り維新の混乱が落ち着いてくると、禁令が解かれ、太田川に橋が架けられ、幅員2メートルに及ばない狭小な道が拡幅されるなど、交通網の整備が始まります。しかし、技術的にも、経済的にも困難が多く、なかなか進みませんでした。
 明治13年(1880)3月に広島県令に着任した千田貞暁は、藩政時代のままのインフラで物資が渋滞し、経済活動が停滞している実態を踏まえ、道路整備や築港に着手しました。
 市勢の発展にともなって架橋、道路整備、築港、鉄道開通と、交通網の整備が進んでいきました。明治時代の終わりには、築城当時に開削された堀や運河を一部を除いて埋め立て、新たな道路が整備されるとともに、市内電気軌道が敷設されました。

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