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■山陰陽交通道路開鑿書類・付図(広島市公文書館蔵)
 明治17年(1884)2月

 道路整備は、財政難のため、地域住民が費用を負担し、自らの手で行うことで始まりました。明治10年代になると、県による道路整備がようやく本格化しました。県令に就任した千田貞暁は、山陰と山陽を結ぶ陰陽連絡道路の重要性を意識し、広島-三次-松江線、広島-可部-浜田線など3路線の拡幅や開削を進めました。
 図は、沼田郡八木村(現在の安佐南区八木)の城山(八木城跡)の北を通る雲石街道を改修した際の図面で、赤色の太線が改修前、赤い点線が改修後の道路を示しています。

山陰陽交通道路開鑿書類・付図(広島市公文書館蔵)

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