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■ 晩年の千田貞暁・銅像の除幕式

 宇品築港工事では、工事期間中に何度も災害に遭遇し、その復旧と設計変更から工事費は当初予算の3倍以上の約30万4千500円までに膨らみました。千田は、資金の工面に奔走し、2度にわたって国庫補助金を得ることができましたが、明治22年(1889年)3月に完成を見ぬまま政府から懲戒・左遷されてしまいました。
 同年11月に完成した宇品港は、当初利用する船が少なく、千田貞暁に対して批判的な意見が多く寄せられました。しかし、明治27年(1894)の日清戦争では軍用港として重要な役割を担い、さらに明治30年(1897)には台湾への定期航路が、明治38年(1905)には清国との定期航路が開かれ、広島の産業発展を支えました。
 千田の功績が認められ、大正4年(1915)に銅像が建立、大正14年(1925)に千田廟が建立、近辺が公園として整備されました。

 

■晩年の千田貞暁(広島市公文書館蔵) 
 明治時代

晩年の千田貞暁(広島市公文書館蔵)

 

■銅像の除幕式(広島市公文書館蔵)
 大正4年(1915)11月3日

銅像の除幕式(広島市公文書館蔵)

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