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■清国ニ対シ宣戦・御署名原本・明治二十七年・詔勅八月一日(国立公文書館蔵)
 明治27年(1894)8月1日

 

 清国に対する宣戦の詔勅

 明治27年(1894)8月1日に国民に対して、清国と戦争を始めたことを国民に告げる詔書です。正式には8月2日の閣議決定をもって、公布されました。
 宣戦布告などの事前通告なしに戦争を開始することを禁止したのは、明治40年(1907)のハーグ開戦条約(日本は明治44年に批准)からで、それ以前は必ずしも宣戦布告の通告は必要ではありませんでした。事実、この詔書以前の7月25日には豊島沖海戦があり日本はこの日を開戦日としていますが、その6日後の7月31日に西洋列強に交戦通知書を送っています。

 詔勅=天皇が発した公文書 

 

(口語訳)
天の助けを受け、永遠に一つの系統の皇位を継承してきた大日本国皇帝は、忠実かつ勇敢なあなたたち国民に(以下のことを)知らせる。
朕は清国に対して宣戦を布告をする。朕の部下はよく朕の意を理解して陸上と海上において清国と交戦して、国家の目的を達するように努力すべし。仮にも国際法に反しない限り、各々の立場と能力に応じてあらゆる手段を余すことなく行使せよ。朕が思うに即位して二十年余り、平和の治世において文明化をすすめ、外国と問題を起こすことは極力無いことと念じ、部下には常に友好関係を築くように努力させ、幸いに列国との関係は年を経るごと親密を深めてきたが、清国は朝鮮事件において、我が方に対して隣国として信義を失う行動に出た。朝鮮は(日本)帝国が最初に世話を焼き、列国と並ぶことができるようになった独立国である。しかし、清国は自ら朝鮮を属邦(=属国)と称し、ある時は秘密裡にある時は堂々と内政に干渉し、今回の内乱が起こると属邦の難を救うとして朝鮮に出兵した。朕は明治十五年の条約(=天津条約)により、変(=東学党の乱)に備えて出兵した。さらに朝鮮の騒乱を永遠に無くし、将来にわたり治安を維持することにより東洋全体の平和を維持したいと、まず清国に告げ、協同して取り組みたいと申し出たが、清国は反対にいろいろと理屈をつけ拒否した。(日本)帝国は、朝鮮の内政を改革し、治安を強固なものにし独立国として体面を保つように勧め、朝鮮もすでにこのことを承諾したのにも関わらず、清国はいつも秘密裡にこうした目的を妨害し、時局を見て水陸の兵備を整え、この兵備が完了すると、すぐにその力で朝鮮征服の野望を遂げようとしている。さらに大兵力を朝鮮本土に送り、韓国領海においてわが国の艦艇を攻撃するなどの横暴を極めている。すなわち清国が朝鮮国の治安を乱し、(日本)帝国が率先して諸独立国と並ぶことのできるようにさせた朝鮮の地位を失墜させ、それを規定した条約と韓国の地位をうやむやにし、(日本)帝国の権利や利益をも傷つけ、東洋の平和をおびやかそうとしている、ここに清国の策略があることは疑う余地はない。

今回の謀略について深く(清国の)思いをおしはかれば、当初から平和を犠牲として、その非望を遂げようとしていると言わざるを得ない。すでに事態はここまで悪化している。朕は常に平和を願い(日本)帝国の名誉を国内外にはっきりと示してはいるけれども、公に戦争をすることを宣言しなければならない状況となった。あなたたち国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、(日本)帝国の栄光を確たるものにすることを期待する。

御 名 御 璽
明治二十七年八月一日

※( )は原文には書かれていませんが、意味がわかりやすくなるように付記したものです。

©国立公文書館
※転載禁止

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