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■広島を退去する清国講和使節一行(広島市市民局文化スポーツ部文化振興課蔵)

 

 清国講和使節一行の写真

 戦況が思うように打開できない清国は早急な和平を実現するため、講和使節団を広島に送りました。明治28年(1895)1月31日に広島に到着した講和使節団は、広島県庁で伊藤博文と陸奥宗光と会談しましたが、清国講和使節団の全権大臣が全権委任状を有していない点が指摘され交渉は決裂しました。2月4日に宇品港へ戻る時の講和使節団一行の写真です。
 講和会議は3月20日に下関で再開しますが、再開までの間、日本軍は清国の海軍基地のある威海衛を攻め落とし、北洋艦隊を全滅させ、和平交渉をより優位に行える状況となりました。4月17日に調印された日清講和条約では、清国に朝鮮の独立を認めさせ、清国は多額の賠償金を日本に支払うこととし、台湾、澎湖諸島、遼東半島も日本に割譲することになりました。しかし、直後の三国干渉(フランス・ドイツ・ロシア)により、日本は遼東半島の割譲は放棄し清国に返還することになります。

広島を退去する清国講和使節一行(広島市市民局文化スポーツ部文化振興課蔵)

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