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■発掘調査で見つかった明治期の軍用水道の鉄管(広島城遺跡サッカースタジアム地点)

 

 軍用水道の敷設

 広島市の飲料水は川から汲むか井戸水に頼っていましたが、潮汐により海水が川を遡上し、井戸水に交じることも多く、明治のはじめ頃は、川の水をろ過して販売する業者もいました。日清戦争がはじまり軍隊が集まり、人口も急速に増加すると飲料水が深刻な問題となり、宇品の陸軍御用船の用水の需要に応えるため上水道の整備が急がれました。
  明治27年(1894)に広島市は上水道敷設のための調査を行い、翌年、広島市水道敷設を内務省に申請し却下されましたが、天皇の勅令により軍用水道を敷設することになりました。軍用水道と同時に広島市水道の工事も並行して行われ、軍用水道とも接続されました。
  明治31年(1898)8月に盛大な通水式が行われ、軍用水道は広島市に貸与され、広島市の敷設した水道と合わせて広島市水道と呼ぶこととなります。
  近代水道で言えば、広島市水道は横浜、函館、長崎、大阪に続く全国5番目の整備となりました。

発掘調査で見つかった明治期の軍用水道の鉄管(広島城遺跡サッカースタジアム地点)

 

■軍用水道敷設時の石額(広島市東区牛田新町)

 広島市東区にある広島市水道資料館の入り口の左右には軍用水道敷設時に掲げられた2つの石額が置かれています。
 入り口左側にあるのが、伊藤博文が書いた「深仁厚澤(しんじんこうたく)」の石額で、ポンプ室正面に掲げられていたもので、右側にあるのが、当時の陸軍中将児玉源太郎の書いた「不舎晝夜(ちゅうやをおかず)」の石額で、牛田取水門中央上部に掲げられていたものです。この2名は広島の軍用水道敷設について尽力した人物であると言われています。

軍用水道敷設時の石額(広島市東区牛田新町)

広島市水道局提供

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