旧可部町域での発掘調査が続いています。この発掘調査は可部バイパスの建設工事に先立って行うもので、
古墳は南流する根谷川沿いに開けた、三入・大林地区の平野部を東に望む小高い丘の上にあります。平安時代
の10世紀前半に著された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に記載される「弥理(みり)郷」の所在地と考えら
れるこの一帯は、市内でも早くから開けたところ。つい南側の尾根で昨年まで発掘調査を行ったトンガ坊城遺跡
に続く発見が期待されます。
<2007年11月26日>
発掘調査がスタートした坊主山古墳。標高約120m、比高約30mの頂に古墳はあります。寒さが日増しにつのる中での発掘調査です。風邪をひかない様にがんばって下さいね。 |
<2007年11月30日>
この古墳の頂上に設けたトレンチから、墓壙(人を埋葬するための穴)が4ヶ所(矢印で指したヶ所)見つかりました。これまで、この遺跡は「古墳」として知られていたのですが、もっと昔の弥生時代にも、ここが墓地として利用されていた可能性が出てきました。弥生時代の集落跡が見つかったトンガ坊城遺跡との関係にも興味がわきます。 |
<2007年12月6日>
(上)今朝はこの冬一番の冷え込みでした。発掘現場にも初霜が降りました。地球温暖化の傾向が続く中、この冬はけっこう寒くなる予感がします。 (右)確認したお墓の上面には、こぶし大の川原石があるものがありました。おそらく、お墓の位置を示す目的で設置された墓標石と考えられます。全ての墓穴の上にあるわけでもなく、標石をもつものとそうでないものとの違いはどこにあるのでしょうか? |
<2008年1月22日>
いよいよ先週(1月15日)から確認された墓穴を掘り始めました。場所によってはいくつもの墓穴が重なって見 つかっています。ていねいに移植ごてや草削りを使って、埋められた土の色や質の違いを見分けていき、この 違いをたよりに墓穴が掘られた順番を確認して、どの順番で掘り下げていくのか決定する作業をおこないま す。ちなみにここではBよりも後にAとCが、Cよりも後にDが作られていることが分かりました。我々が掘り下げ ていく順番は一番新しく作られた墓穴からです。 |
<2008年2月19日>
本遺跡からは、30基以上の墓穴が見つかっていますが、1基の箱形石棺墓を除き、ほとんどが素掘りの土壙墓といわれるものでした。写真はその唯一の箱形石棺墓です。 近々蓋を開ける予定です。土壙墓の場合、骨はとけてなくなっていることがほとんどですが、箱形石棺墓の場合、運(?)が良ければ残っている可能性があります。この箱形石棺墓の場合いかがでしょうか? |
<2008年2月20日>
箱形石棺墓から人骨がでました!! 前回の続報です。箱形石棺墓は蓋石を取り除くと、内部は土が充満していました。その土を慎重に取り除いていくと、ついに人骨が現れました。人骨は非常に脆くなっていて作業は根気のいるものとなっています。 この箱形石棺墓は東西方向に作られ、被葬者は、頭が西側になるように葬られていました。ちなみに、この石棺墓の内側の規模は長さ約160cm、幅約40pです。人骨の大きさはこれよりも一回りも小さいようです。 今後専門家に依頼して、身長、年齢、性別などを調査していただく予定にしています。 |
<2008年2月29日>
人骨をとりあげました 前回の石棺墓から出土した人骨の続報です。 さる2月29日金曜日、山口県下関市にある土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム松下館長に来ていただき、人骨の取り上げを行いました。 人骨についての詳しいことについてはこれから調査していただくことになりますが、松下館長の現地での所見では、性別は男性であり、年齢は高齢であろうとのことでした。また、頭蓋骨ががっちりしているのに比べ大腿骨や上腕骨は非常に華奢(細い)とのことで、あまり労働をしていなかった人物の可能性を指摘されました。 |
|