学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「野生動物にご注意!」

2021.9.9

土塁 文化情報マガジン「to you」令和3(2021)年9月号の「もぐりんが行く!文化財めぐり」で、旧広島陸軍兵器補給廠(しょう)似島火薬庫を取り上げて紹介しています。 昭和4(1929)年に設置された似島火薬庫は、竣工から92年、使用されなくなってから76年が経過し、劣化が進んでいます。取材に訪れた時には、鬱蒼(うっそう)とした雑木林の中に埋もれるような状態にありました。

 人の気配がしなくなって久しいからか、一帯は野生動物の生息範囲となっているようです。奥の旧歩哨(しょう)所を確認するべく、背丈ほどもある雑草をかき分け、四苦八苦しながら進んでいると、イノシシの家族と鉢合わせするというアクシデントがありました。 1m近い成獣と3頭のウリ坊が見えました。驚いたのは、自分だけでなくイノシシたちも同じだったようで、鳴き声を出しながら慌てて山深い方に逃げて行きました。とっさのことで呆然(ぼうぜん)と立ち尽くすだけでしたが、事なきを得ました。歩哨所
 船着場には、イノシシ出没に対する注意喚起の張り紙が設置されていました。訪問される際は、十分ご注意ください。

文化財課指導主事 福島 忠則

写真上:旧弾薬庫周囲の荒れた土塁
写真下:雑木林の中に忽然と現れる旧歩哨所

「かたつむり発掘?」

2021.8.31

 発掘調査で見つかる遺物のほとんどは土まみれなので、土を落としてから文様などを観察して持ち帰ります。先日、出土した大量のレンガをひとつひとつ確認していると、レンガや木炭の表面から1mm程度の非常に小さな貝殻をいくつか見つけました。この貝殻が昔図鑑で見たかたつむりの子どもにそっくりで、レンガを埋めた時にかたつむりが入り込んだのかと思いましたが、周囲の調査員の意見を聞くうちに別の可能性が出てきました。
 現在はレンガ同士の接着にはモルタルが使われることが多いのですが、今回発掘したレンガの表面には漆喰が残っているので、漆喰を塗って固定されていたと考えられます。漆喰の主成分は水酸化カルシウム(消石灰)で、その原料は炭酸カルシウム(石灰石)です。石灰石は貝、サンゴなどの殻が堆積したものと言われており、中から化石が見つかることもあります。そして、今回見つけた貝殻は石灰石に含まれる巻貝の化石ではないかと推測できるとのこと。もしかすると、他にも化石が含まれていたけれども石灰石を砕く際に小さな貝殻だけ形が残ったのかもしれません。
 埋蔵文化財の発掘調査は人間が暮らしていた時代を調べるので、今まで化石を見つけたことはなかったのですが、意外なところから見つかることもあるのですね。

文化財課主事 兼森帆乃加

  貝殻
写真:小さな貝殻


「古代のものづくり」

2021.8.17

土器 文化財課では、「古代生活体験(火おこし、弓矢、石器体験など)」や「古代のものづくり体験(土器づくり、埴輪づくりなど)」を公民館や学校などで実施し、文化財を身近に感じてもらう活動をしています。

 先日、この事業の準備として、弥生土器を試作しました。本物の弥生土器は、600~800度の野焼きで焼きあげられた素焼きの土器で、ロクロは使わず、輪積み技法という方法で作られています。土器の表面には、箆(へら)や櫛、貝殻などで文様がつけられていますが、縄文土器に比べると簡素な外見をしています。
 私たちが体験で作る土器は、出土する土器の3分の1くらいの大きさ埴輪で、焼かなくても硬くなる粘土を使用して製作しています。工程が簡略化され、楽に作ることができるはずですが、休憩なしで集中してやっても2時間程度はかかってしまいます。また、自分がイメージしているような形に成形するのはとても難しく、当時の人々の技術力の高さに驚くばかりです。
 土器のほかに人物埴輪も何度か作ったことはありますが、15cm程度のものを作る場合でも、2時間はかかるうえ、当時の人々が製作したように精巧に作るのは至難の業です。

 こういった事業を皆様の近くの学校や公民館などで開催されることがあれば、ぜひ参加してみてください。きっと教科書などで勉強するよりも楽しく、歴史を学ぶことができると思います。

文化財課学芸員 日原 絵理

写真上:左側が私の製作した土器。右側は遺跡から出土した弥生土器。
写真下:歴代の職員が製作した埴輪たち。製作者の個性が出ています。

「学芸員の仕事…例えば企画展」

2021.7.26

鞍 ネタがないので思い出話をします。広島城の学芸員は年に一度企画展を担当します。担当者の数だけ考え方や手法がありますが、自分は、やや「学」よりも「芸」で勝負するタイプでした。
  たとえば、昔の馬具を展示しました。
木を組み合わせた不思議な形の鞍(くら)や、スリッパみたいな鐙(あぶみ)が謎です。なぜこんな形なのか、どうやって使うのか、これは体験せねばうまく伝えられない。せっかくだから、展示会場で甲冑を着て颯爽と駆ける私の映像を流すことにしよう。いてもたってもいられず、和式馬術の修行に通いました。すぐにあの鐙の形の意味がわかりました。部品
おしりを浮かせて鐙の上で踏ん張る「立ち透かし」のためでした。鞍は、甲冑を着て自在に馬を操るのに適した仕組みになっていることもわかりました。体験したことは、わかりやすい展示には大いに役立ちました。ただ「わかった」と「できる」は別です。ちなみに走ったらすぐ振り落とされました。そういうわけで、会場に映像は流れませんでした。



 たとえば、甲冑の展示をしました。
 どこの博物館でも甲冑と言えば、ケースの中でいかめしく座っています。それはそれで格好いいけど、ここで「芸」をしたくなりました。自慢の甲冑を提供してくださった方に頭を下げて、バラバラにしました。兜はひっくり返してみました。こうすることで、仕組みや細工を伝えることができました。日本の武具武器は、命のやり取りに関わる道具でありながら、見えない部分にまで伝統工芸の細工が施されています。熱い思いを持って作った職人さんが少しでも浮かばれたかな、と思います。
 ただ一つ、大きな失敗をしました。広島城の企画展示室は4階です。階段しかありません。甲冑は重いということが頭から抜けていました。調子に乗ってたくさん展示したことを著しく後悔した企画展でした。
 
鞍 文化財課学芸員 岡野 孝子

写真1:鉄でおおわれた戦闘用の鞍
写真2:こう見えて何一つ無駄な部品はない
写真3:展示の最後はカープでしめるのがマイルール

「ところ変われば」

2021.7.7

発掘 現在、サッカースタジアム(仮称)建設に伴う発掘作業が基町地区の中央公園で進められています。私は昨年度からその調査のため北海道から出向してきています。
 ところ変わると土も違い、掘り方、道具も変わってきます。まあ、土だけでなく地形や時代、今までの伝統も違いますからね。広島市内の土は花崗岩由来のマサ土や砂が大部分で、結構硬く、そしてもろいです。一方北海道の土は火山灰由来の黒ボク土が多く、比較的柔らかで、ちょうど畑の土みたいな感じです。
 写真は北海道浦河町での発掘作業の一コマです。みんなが道具並んで一斉にしゃがんで土を掘っています。手に持っている道具はシャベル(移植ごて)です。大きく土を掘る場合はスコップを使いますが、基本的に並んでシャベルです。寒そうに見えますが、これでも5月の風景です。写っていませんが、空にはオオジシギが巣作りのために飛び回っています。
 広島市の発掘では鍬が活躍します。鍬を振るうと周りの人にはそれなりに危険が伴いますので、みんなで並んで掘る掘り方にはなりません。一人が鍬を振るい、後の人がジョレンで土を集めるという作業になります。細かい所はガリと呼ばれる三角ホーを使います。この道具は優れもので、手首を曲げたりせず腕全体の力を使って掘れるので関節を痛めにくいです。
 このように使う道具や掘り方は違いますが、遺跡を丁寧に調査するという点においては何ら変わりがありません。このコロナの折で今は難しいですが、違う地域の調査を見て「ほー、へー」と感心する体験は貴重なので、皆様もどこかよそに行ったら発掘現場をのぞいてみてください。
 北海道にお越しの際は札幌の東隣、野幌(のっぽろ)森林公園内にある北海道立埋蔵文化財センターへぜひお越しください。入館無料で道内の考古資料が一堂に(ちょっと大げさ)皆様をお待ちしています。近所には北海道博物館、野幌森林公園自然ふれあい交流館もあるので併せてどうぞ。

文化財課主幹 中山 昭大

写真上:北海道浦河町 昌平町遺跡の発掘調査 / 写真下:左からジョレン、鍬、手箕、両刃鎌

「直角に曲がる川」

2021.7.5

源流 文化財課のある東区光町界隈を流れている川に天神川があります。
 平成16年(2004)に新規開業した、JR天神川駅の駅名の由来となった川でもあります。
その源流は東区山根町の尾長天満宮の裏の二葉山にあり、天満宮(=天神さん)から流れ出ている川なので天神川と呼ばれ、JR天神川駅の傍を通過し、府中大川へと流れ込む約3kmの川です。現在はほぼ暗渠化され、川の流れを見ることができる場所はごくわずかしかありません。
 光町界隈の天神川はすべて暗渠化され、一見しただけでは天神川の場所すらわからない状態にもなっています。今は暗渠となった天神川に沿って、文化財課の周辺を少し歩いてみると不自然に屈曲する場所があります。
 二葉中二葉中学校の北東端は天神川の暗渠の上が歩道となっており、ここで天神川は直角に流れを変えています。その先の、愛宕町の旧西国街道にかかっていた俄羅々々橋(がらがら橋)跡へ向かう手前でも直角に流れを変えています。これらの屈曲は、明らかに人工的に変えられたものです。
 ではなぜ何度も屈曲する流れにする必要があったのでしょうか?
実は、戦前には広島駅の北側、尾長天満宮から光町一帯は陸軍の東練兵場がありました。練兵場とは、その名のとおり兵隊の訓練をする広場です。この練兵場の境界を天神川は流れていますので、陸軍が練兵場の邪魔になる天神川の流れを変えたのではと推測しています。
橋  防衛省防衛研究所に残る陸軍の資料の中に、それを裏付ける資料が無いか探してみたのですが、明治31年(1898)に東練兵場の土地を整地した際の資料しか見つけることはできませんでした。
 直角に曲がる天神川の謎は、今後も機会があれば調べてみたいと思います。




文化財課主幹学芸員 秋政 久裕地図

写真1:天神川源流 注連縄のあたりから水が湧き出している / 写真2:二葉中学校の北東隅 天神川の暗渠の上が歩道 / 写真3: 俄羅々々橋(がらがら橋)跡の手前 白い部分が天神川の暗渠。写真右側を進むと俄羅々々橋跡 / 地図:青線が天神川の流路

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