学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「大人も子どもも楽しめるミュージアムショップ」

2018.8.16

 8月も半ばになりました。 (公財)広島市文化財団の博物館は、夏休みということもあり連日たくさんの来館者で賑わっています。さて、みなさんは博物館に併設されているミュージアムショップを訪れたことはあるでしょうか?
 多くの博物館に併設されているミュージアムショップですが、ブームのきっかけは1990年に東京国立博物館の地下に広いミュージアムショップがつくられたことだといわれています。ミュージアムショップの主な目的は、来館の証としてグッズを持ち帰ってもらうこと以外に、展示品やそれに関わる知識を提供するということがあります。展示の図録などがこれにあたりますが、そのほかにも関連書籍や、科学系博物館などでみられる実験や観察キットなど、大人も子どもも知的好奇心をくすぐられる様々な商品が並んでおり、見学後にミュージアムショップに立ち寄るのも楽しみの一つです。
 残念ながら、文化財課にはミュージアムショップはありませんが、文化財課とともにボランティア「ひろしま歴史探検隊」の活動拠点となっている広島城と郷土資料館にはミュージアムショップがありますので、少しご紹介します。広島城では展示図録や城に関する書籍のほか、武将Tシャツやストラップ、また、よそでは手に入らないオリジナルキャラクターグッズも多数取り揃えており、海外の方にも大変好評です。郷土資料館では展示図録や資料解説集のほか、広島の古地図、街歩きの本など、広島の過去と現在をより深く知ることのできる書籍などを取り扱っています。また、小さな子どもさんも多く訪れるので、コマやメンコなど昔懐かしいおもちゃも並んでいます。
 このほかにも(公財)広島市文化財団の博物館では、施設のテーマに沿った個性豊かなミュージアムショップが併設されています。機会がありましたら、ぜひのぞいてみてください。

文化財課学芸員 田原みちる
写真1:幅広い商品が並ぶ広島城ミュージアムショップ
写真2:昔懐かしい雰囲気の郷土資料館ミュージアムショップ

城郷土
        写真1                   写真2


「空調服」

2018.7.23

 平成30年7月豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げるとともに、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
 幸いなことに、文化財課の事務所や調査地では大きな被害はありませんでしたが、未だ混乱が続き、皆様大変不自由されていることと思います。
 梅雨が明けて暑い日が続きますので、くれぐれもお身体にはお気をつけてお過ごしください。

 さて、現在文化財課では、安佐南区の都市計画道路予定地で発掘調査を行っています。この道路には、緊急車両の通行路を確保するという災害対応の目的もありますので、改めて身が引き締まる思いです。
 調査期間がちょうど夏の暑い時期と重なることから、今回の発掘調査から空調服が導入されました。一見すると防寒のため厚着しているようですが、背中・腰あたりに扇風機のファンが2箇所付いており、常に風を浴びることができるという、暑さ対策のための作業着です。屋外警備や工事に従事されている方が着用されているのをご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
空調  ファンやバッテリには多少重さがありますが、使用中は風圧で浮いているのかあまり気になりません。素材や形状など色々な種類がありますので、屋外で長時間作業される方はぜひ調べてみてください。
 連日気温35℃を超える発掘調査現場では、さすがに空調の効いた室内ほど快適にとはいきませんが、汗の蒸発を早めてくれるので、汗が流れて目に入ったり服が纏わりついたりするのを改善できて便利です。
 天気予報によるとまだしばらく猛暑が続くようですので、空調服の力も借りながら発掘調査を進めていきます。

文化財課主事 兼森帆乃加 / 写真:空調服のファンを作動させたところ。両脇の黒い部分がファン。



「変わったもの 変わらないもの」

2018.6.19

 ビル5年間の博物館勤務を経て再び文化財課配属となりました。目を見張ったのは、文化財課の最寄り駅である広島駅とその周辺の変貌でした。
 広島駅の南北をつなぐ明るく広い連絡通路。駅南側には商業施設などを併設した高層ビルが出現。広大な更地が目立っていた駅の北側は、建物が立ち並びたくさんの企業や事業所が進出しています。正式な地名ではありませんが、「エキキタ」と呼ばれるようになっていることも驚きです。(広島に住んでいてさえこれですから、何年かぶりに広島を訪れる方はなおのことと思います。)
 大通りでない場所でも、人の流れが変わったせいか古くからの個人商店や喫茶店などが姿を消し、駐車場や住宅になったりと、街並みは確実に変わっています。
 だからでしょうか「この一角は以前のままだ」という場所を見つけると、花懐かしい気持ちになります。先日は、通勤に使う道路の端にとても小さな「変わらないもの」を見つけました。
 これは『ヒメツルソバ』。目立つ花ではありません。(というか全く目立たない花です。)冬場にはほとんど枯れているように見えますが、根は越冬し、春以降はコロンとしたピンク色の小さな花をつけます。「お久しぶり、元気でいたんだね。」変わらずそこに咲き続けていた小さな命。ささやかな、でも、うれしい発見でした。

文化財課主任学芸員 荒川美緒 / 写真上:広島駅南側の高層ビル(松原町) 写真下:ヒメツルソバ(愛宕町)      



「『この世界の片隅に』に登場する近代建築物 -広島編-」

2018.6.13

 漫画『この世界の片隅に』は、戦時中の広島(主に江波と呉)を舞台に描かれた作品で、一昨年に長編アニメーション映画化され、話題になりました。現在、広島市郷土資料館では、企画展「漫画『この世界の片隅に』に見る戦時下の暮らし(~7月8日(日)まで)」が開催されており、この企画展では、主人公すずが生きた時代の暮らしぶりを知ることができます。そこで今回は、物語の中に登場する、原爆に耐え、広島市内に現存している近代建築物をご紹介します。
旧広島県物産陳列館(現原爆ドーム)
ドーム  大正4年(1915)8月、広島県物産陳列館※1として開館。広島県下の産業振興の拠点および展覧会場として建設されました。チェコの建築家ヤン・レツルが設計し、窓の多い3階建て(正面中央部分は5階建て)で、楕円のドームをもつ洋風の建物は、広島名所となりました。1階は主に事務室、2階・3階には陳列室があり、約500坪の庭園には、八方から水を吐く噴水をもつ洋風庭園や和風庭園も整備されていました。
 昭和19年(1944)3月、戦局悪化により、産業振興の拠点としての業務は廃止され、行政機関や統制会社の事務所として使われました。原爆投下時、爆心地から北西約160mの至近距離にあったことから、建物は熱線と爆風を浴びて大破、全焼しました。しかし、爆風をほぼ垂直の方向から受けたことや窓の多い建物だったためか、建物の中央部は奇跡的に残りました。
旧大正屋呉服店(現平和記念公園レストハウス)
ハウス  昭和4年(1929)から昭和18年(1943)まで大正屋呉服店として営業していました。建築家・増田清※2が設計した鉄筋コンクリートのモダンな建物で、ショーウィンドウがあり、1階から3階までが店舗でした。当時としては珍しく履物を履いたまま入店でき、屋上からは市内を一望できました。
 昭和18年(1943)12月、繊維統制令により呉服店は閉鎖され、その後は広島県燃料配給統制組合が燃料会館として使用していました。被爆時は、爆心地から170mの距離にあったため、爆風により屋根が押しつぶされ、地下室を除いて建物は全焼しました。しかし、爆心地の近くでありながら、爆心地側に開口部がほとんどなかったためか、全壊は免れました。
 戦後70年が過ぎ、戦前からあった建築物は、老朽化などが原因で街から姿を消しつつあります。戦前の広島の面影を伝えるこれらの貴重な文化財を大切にし、後世に残していかなければなりませんね。
※1:物産陳列館は、大正10年(1921)に広島県立商品陳列所、昭和8年(1933)には広島県産業奨励館と改称しました。
※2:本川尋常高等小学校や広島市役所、広島県農工銀行の設計にも携わっていました。増田が設計した建物は、いずれも頑丈な鉄筋コンクリート製であったため、戦火に耐え、全壊を免れた建物がいくつもありました。

文化財課学芸員 日原絵理 / 写真上:大正期の物産陳列館 国立国会図書館蔵『広島県物産陳列館報告』より 写真下:現在のレストハウス



「デルタ地帯の住宅の悩み」

2018.5.14

 今回は広島平和記念資料館下の発掘調査成果から見られる住宅の悩みについてお話したいと思います。
 写真1~3は、資料館本館北東側の柱から少し東側に離れたエリアを調査の進行順に撮影したもので、時期的には被爆前から近世後期頃と想定されます。コンクリート基礎や石列、下水管などがあり、建物の中か外かは不明ですが、住宅地の一角であると考えられます。写真1~3までは深さにして約30㎝程度ですが、多様な土が使われています。主なものでは暗褐色系の土、砂、赤褐色系の粘質土、三和土(たたき)の痕跡と考えられる白色土、真砂土があげられます。そしていずれもが、不均質に分布しているのです。通常、人の生活面は整地土を入れ、転圧したり、踏みしめたりして、しっかりした面になりますので、それなりに均質な土で構成されます。この写真のようにパッチワークのような状態にならないのです。
 このことは、この場所がデルタ地帯であり、地盤が強固ではないために不等沈下が発生したことに起因すると考えられます。不等沈下は現代の住宅でも悩みの種で、地面が不均等に沈むために建築物などに影響を与える現象です。この事例の場合、不等沈下が起こった場所に、整地のため土を入れ、上面を平らにすると、沈下の激しい場所は他よりも厚く土が入り、その後、生活するうちに薄い層は削れ、厚い層の土が残り、パッチワーク状になったものと考えられます。あるいは、不等沈下が起こった場所のみに土を入れるというパターンも考えられるかもしれません。
 そういう目で見ると、資料館の調査では、同じ建物内にモルタル床面が数層ある事例など、不等沈下の影響が想定される例があります。とはいえ、この写真の場所は他よりも目立っています。その原因は調査が進むと明らかになりました。写真4は自然堆積層まで掘り込んだ溝状遺構に模式図堆積した砂を部分的に掘り、溝底を一部露出させたものです。両側の土のうの下にはこの溝を埋めている砂がまだ残っています。溝の底は写真3よりも約1.5ⅿ下になりますが、この間には、さらにもう一つ溝状遺構があって、それも砂で埋めてありました。つまり、ここには2層の厚い砂が帯状に堆積しており、周囲の土との間で沈下量の差が出やすかったと考えられるのです。
 資料館の調査では、溝や穴などに砂を入れている事例が多く見られました。何か地盤の改良に効果があるのか、他に意味があるのか、現在のところ良くわかりません。ご存知の方がいらっしゃいましたら、情報をお寄せください。

文化財課主任学芸員 田村規充

被爆時近代
写真1 被爆時の生活面             写真2 近代の生活面

     近世 遺構









                               写真3 近世後期の生活面         写真4 溝状遺構


ウランガラス

2018.5.8

  広島平和記念資料館(旧材木町)の発掘調査では、たくさんの、そして様々な種類の出土品があります。これまで、弥生時代や古墳時代の出土品を相手にしていた私にとって、はるかに多くの知識を得る必要があるので大変です。
 以前、ガラスについて調べていた時、「ウランガラス」というものがあることを知りました。ウランガラスはガラスの着色料として微量のウランを混ぜたもので、普段は薄緑色をしています。このガラスに紫外線をあてるとガラスが綺麗な黄緑色の蛍光色に光るというのです。あまり明るくなく紫外線の割合が多くなる朝方や夕方の太陽の光に当たると、きれいに輝き世界中で人気が出たそうです。日本でも生産されていましたが、戦後はその原材料の特殊性などからほとんど作られなくなりました。なお、ウランガラスに含まれているウランは極微量のため、人体には影響がないそうです。
 資料館の調査でもたくさんのガラス製品が出土していたので、もしかしたらと思い、趣味の鉱物用に買っていた紫外線を出すブラックライトを当てて探していくと、ようやく一つだけ見つかりました。高さ15㎝程の花瓶で、ガラスの表面はオニキスのような独特の美しさがあります。ブラックライトの光を当てると、たしかに黄緑の蛍光色に光りました。まずは発見、ご報告ということで、次はこれが外国製なのか日本製なのかを追っていきたいです。
「ブラックライト」「通常光」
文化財課学芸員 桾木敬太/写真左:「通常光をあてたウランガラス」、写真右:「ブラックライトを当てたウランガラス」

「出張事業真っ盛り」

2018.4.11

 火口4月になり新年度が始まりました。例年、4月・5月の時期は小学校からの出張事業の依頼をいただくのですが、今年度は今回がはじめてという小学校からの申し込みもありました。内容としては人気メニューである「古代体験」(弓矢、火起こし、石器体験など)の依頼が多く、現在、体験で使用する道具や材料の準備を行っています。
 写真は火起こし体験で使用する火口(ほくち)です。火起こし器を使って火種(ひだね)を作り、燃えやすい火口で火種を包んで息を吹きかけると大きな炎があがります。以前にもこのコーナーで紹介されていますが、文化財課では植物繊維である麻ひもをほぐして火口を作っています。これが結構手間のかかる作業なのですが、コツコツと作業を進めています。
 また、古代体験のほかに粘土を用いた「はにわづくり」の依頼もあり、これから文化財課職員とボランティア「ひろしま歴史探検隊」の皆さんとで、依頼をいただいた市内の小学校へ出かけていきます。体験やものづくりを通して、古代の人びとの生活を体感してください。

文化財課指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真:「麻ひもをほぐして作った火口」      


「緑化への道」

2018.3.15

このコーナーにお邪魔するようになってから早2年。どうも私の回は小難しい話が続いたので、ちょっと小休止、とはいっても少々深刻なのですが・・・。
 今年の冬はかなり寒かったですが、ようやくここ数日春めいてきました。前にいた職場でもそうだったのですが、自分のミッションの一つとして職場の緑化を心がけており、園芸担当学芸員としてひっそりと活動してきました。年によって、季節によって、あるいは場所によって毎年いろいろな花などを育ててきましたが、どうもこちらの土と相性がよくないのです。
 写真1は事務所東側の畳一畳ほどの小さなスペースです。ご覧のように日当たりは決して悪くないのですが、とにかく育ちが悪いのです。ヒマワリやコスモスなど、ほっといてもグングン育つようなものを植えたことがあるのですがダメでした。土の改良をと思い、この秋に蒔いたレンゲソウ(雑草ですよ!)も、芽すら出ませんでした。写真2のスイートピーも本来なら 今ごろは数十cmになっていてもおかしくはないのですが、わずか5・6cmほどでここ2ヶ月ぐらい成長は止まっています。養分が足りないのかなとも思うのですが、昨夏はアスターというキク科の花がこれでもかと咲き誇ったこともあり、どうも原因がよくわからないのです。写真3はこれも強いはずの菜の花です。丈は10cmほど、あまりに貧弱でかわいそうになってきますが、一方で懸命に花を咲かせているのを見ると、よく頑張った!といいたくなります。さて春蒔きの花は何にしましょうか。

文化財課主任学芸員 大室謙二

ガーデンスイートピー
        写真1                   写真2

     菜の花











        写真3


「海軍の町」

2018.2.28

 呉少し前に呉に行く機会がありました。戦前、広島市は陸軍の町として、呉市は海軍の町として知られていました。 しかし、広島市の中心部にあった陸軍施設は原爆の被害を受け、壊滅状態になり、現在も残っている建物は数少なくなりました。一方で呉市は、14回にもおよぶ空襲の被害を受け、破壊された施設もありましたが、旧呉鎮守府庁舎(現在の海上自衛隊呉地方総監部第1庁舎)や 旧呉海軍工廠造船部造船船渠(現在のジャパンマリンユナイテッド株式会社呉事業所)など、戦後も現役で使われている施設が多くあります。
 呉鎮守府は明治22年(1889)に開庁しました。翌年の4月にからすこじまは開庁式が行われ、明治天皇も出席されました。現存している旧呉鎮守府庁舎は2代目で、明治40年(1907)に竣工しました。地下1階、地上2階建てレンガ造り(一部石造)の近代洋風建築で、 現在も呉を代表する建物のひとつとなっています。また、呉海軍工廠は、呉鎮守府とともに設置された造船部・兵器部がもととなり、数度の改組を経て、明治36年(1903)に誕生しました。戦艦「大和」をはじめ多数の艦艇が建造され、呉は「東洋一の軍港」の町と呼ばれました。
 現在も呉には港のドックや埠頭、レンガ倉庫群や砲台跡など海軍時代の名残を感じられるスポットがたくさんあります。ちなみに今回紹介した旧呉鎮守府庁舎は事前予約が必要ですが、基本的には毎週日曜日に一般公開されているので、ぜひ訪れてみてはいかかでしょうか。


文化財課学芸員 日原絵理 / 写真上:クレーンが立ち並ぶ旧海軍工廠造船部造船船渠。
写真下:「アレイからすこじま」で撮った1枚。ここからは海上自衛隊の潜水艦や艦艇を間近で見ることができます。


「受け継がれる伝統」

2018.2.19

 千鳥広島平和記念資料館(旧材木町)の発掘調査では、たくさんの出土品がありますが、その中でも鮮やかな文様や色彩をもった飾りタイル(マジョリカタイル)が複数出土しました。このタイルの裏面をみると、千鳥模様のマークと「淡陶会社」の文字がありました。調べるとこの会社は、江戸時代文政年間に淡路島で始まった珉平焼(みんぺいやき)から続く「淡陶社」のもので、なんと現在も「株式会社DantoTile」としてタイル生産を続けているのです。
 早速、㈱DantoTileさんに連絡をし、保存している当時の製品の確認や生産年代の特定のために資料調査に行きました。調査では、出土したマジョリカタイルが明治41年頃のものであることなど様々なことを教えていただきました。出土品も持って行き比較したのですが、資料館の出土品は被熱しているせいか少しくすんで割れています。しかし、㈱DantoTileさんで保存しているタイルは、表面に独特の光沢がありとてもきれいなものでした。私にとっては、戦時中はあまり色の無いイメージだったのですが、こんなしゃれたタイルが貼られた建物があった材木町はモダンで活気があったのだろうなと感慨深いものがありました。
 当時、マジョリカタイルは高級品であり、どこでも使えるようなものではありませんでした。さらに時代の流れとともに、数を減らしました。ごくたまに昔の面影が残る街並でマジョリカタイルを見かけることもありますが、現在では目にすることがとてもまれになりました。が、なんと、㈱DantoTileさんで当時の柄のマジョリカタイルを復刻する動きがあるそうです。これから皆さんの目にする機会も増えることでしょう。今回の調査で私はすっかりタイルファンになってしまいました。

 ※マジョリカタイル=多彩色のレリーフタイル。イギリスの陶磁器メーカーのミントン社が、イタリアの錫釉陶器(マジョリカ焼・マヨリカ焼)のような多彩色釉薬のタイルを「マジョリカタイル」という商品名で発売し、名称として通用するようになりました

タイル1 タイル2
  タイル3
写真文章中/出土タイルの裏面の模様:千鳥がかわいい。
写真上左/ダントー(株)保管のタイル(左)と資料館出土タイル(右):左は独特の金属光沢が綺麗。
写真上右/ダントー(株)保管のタイル(左)と資料館出土タイル(右)
写真下:復刻品(左)と当時のタイル写真(右)

文化財課学芸員 桾木敬太

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