学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「そこにあるからこそのモニュメント」

2019.2.28

 文化財課の近く、数年前に閉校となった代々木ゼミナール牛神広島校の敷地の角に写真の彫刻作品が置かれています。うずくまる動物の背には、しゃもじのレリーフがある円筒形の物体が載せられています。台座側面には、「UKARUKEINO “HIROSHIMA MOUDON”」「1988 BY  MASAYUKI NAGARE」。作品本体には、「流政之」の文字も刻まれています。

 「HIROSHIMA 」は広島、「UKARUKEINO 」は「合格するからね」という意味でしょう。動物の背にのっているのは、福や運をまねくとされる「宮島しゃもじ」とお櫃。「MOUDON」は? 流政之さんの1988年の作品ということを手掛かりに調べてみました。
 流政之さんは、国内外で活躍の著名な彫刻家です。学問の神様とされる天満宮には守護神として牛の像が祀られていることが多いですが、「MOUDON」は流さん創作の「牛神モードン」ということが分かりました。

 どちらかというと歩みの遅い牛に願いを託し、牛歩であっても「合格するからね」というのは、予備校に通っていた生徒さん達に向けての激励であると同時に、生徒さん達自身の切実な願いでもあったことでしょう。この彫刻作品は、かつてこの場に集った人々の思いや願いがこめられた、そして、かつてこの場所がそんな思いや願いを持った人々が集う場所であったことを伝える、まさにモニュメントといえるでしょう。
 そこにあるからこそのモニュメント「UKARUKEINO “HIROSHIMA MOUDON”」。 建物や敷地が別の用途に活用されることが決まると・・・。近くを通りかかるたびに気になります。

                                  文化財課 主任学芸員 荒川美緒
                  写真:「UKARUKEINO “HIROSHIMA MOUDON”」(東区若草町)



「古いお札」

2019.2.19

 先日、親族の遺品整理をしていたところ、懐かしのお札をたくさん発見しました。(懐かしのお札と言いながら、私は初めて見たものばかりでしたが…)見つけたお札は、聖徳太子の一万円札と五千円札、伊藤博文の千円札など比較的新しいものもあれば、武内宿禰(たけのうちすくね)の改造一円券など戦前に発行開始されたものもありました。
 中でも私が気になったのは、十銭紙幣。2種類の絵柄があり、それぞれいつ発行されたものなのか調べてみました。十銭写真上の十銭紙幣(い号券)は、昭和19年(1944年)11月に発行されました。紙幣の表面には紀元二千六百年を記念して、昭和15年(1940年)に宮崎市にある皇宮屋(こぐや)※1の近くに建立された「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」※2が描かれています。この塔は、高さが120尺(36.36m)あり、正面には、当時、世界を統一するという意味で使われていた「八紘一宇」の文字が刻まれています。
十銭  写真下の十銭紙幣(A号券)は、昭和22年(1947年)9月に発行されました。こちらはい号券とは違い、表面には平和の象徴である鳩が描かれ、裏面には国会議事堂が描かれています。
 この2枚の紙幣を比較して、戦時中はお札にまでも戦時色が色濃く反映されていたことに気づきました。また、戦時中は金属が不足していたため、十銭紙幣など少額の紙幣が発行されたことも知りました。戦争は国民の生活のあらゆる場面に影響を及ぼしていたことを改めて感じる機会となりました。

※1 神武天皇が東遷する直前まで過ごしていたとされる皇居跡のこと。
※2 昭和32年(1957年)に「平和の塔」に改称されました。現存しています。
文化財課 学芸員 日原絵理 / 写真上:十銭紙幣(い号券) 写真下:十銭紙幣(A号券)



「旅館のノベルティ」

2019.1.18

 広島平和記念資料館下の発掘調査で、被爆面よりひと昔前の生活面から、写真のように上絵付けで文字が記された湯呑が出土しました。文字は「大坂 常安ばし南詰 寿 さゝき」と読めます。さて、これはどういうものなのかと調べてみました。その結果、戦前の大阪常安橋南詰、当時の地名で大阪市西区土佐堀裏町に佐々木旅館という旅館があることがわかりました。さらに『大阪商工人名録』等の戦前の大阪の旅館が記載されている資料を当たってみると、確認できた範囲では、佐々木旅館は明治34年から昭和5年までの資料に記載がありました。
 佐々木旅館の経営者は当初は佐々木タカさん、大正末期からは松永花さんになっており、明治44年の『旅館要録』の記載では、客間が14室あり、一泊3円となっています。『旅館要録』を見ると、例えば近所の土佐堀一丁目にあった旅館は一泊1円50銭~2円であり、大阪にある多くの旅館も1~1円50銭程度であるため、佐々木旅館は高級旅館であったと考えられます。そのため、湯呑にも旅館名を記すような経費をかけたのではないでしょうか。それでは何故、大阪の旅館のノベルティが、広島の町にあったのか、色々と想像が膨らみます。土産物として販売していたのか、「ご自由にお持ち帰りください」だったのか、いやいやそんなことはないだろう、やはりこっそりと持ち帰ったのではないか。いずれにしても、広島の人が大阪の旅館に宿泊した記念品として持ち帰ってきたことは間違いありません。こうした昔の人の人間的な行為が感じられる遺物や遺構に出会える時が、発掘調査の醍醐味であります。
 この佐々木旅館ですが、『大阪市商工名鑑 大正10年新刊』での旅館業記載業者190者中納税額は堂々の第2位だったのですが、『大阪市商工名鑑 大正13年度用』では199者中10位に後退、昭和10年代の同様の名鑑には記載が無くなってしまいます。廃業したかどうかは定かではありませんが、大正後期からは大資本の近代ホテルが、納税額の上位を占めてきますので、時流には逆らえなかったのかもしれません。

                                  文化財課主任学芸員 田村規充

 湯呑 湯呑
      写真1「大坂 (常)」             写真2「常安ばし (南)」

 湯呑 湯呑
     写真3「南詰 寿 (さゝ)」            写真4「さゝき  (大)」



「貴重な建造物」

2018.12.10

 先日、イベントの下見で牛田山へ登る機会がありました。登山口が豪雨被害の影響で通行止めになっており、う回路を通っていきましたが、その途中で牛田浄水場の配水池が見えました。河川から取水された水は沈殿池でゴミなどが取り除かれ、ろ過池でろ過されたのちにポンプで高台にある配水池に送られます。ここから高低差によって生じる水圧を利用して市街地へ水が供給されます。
 広島市に水道が敷設されたのは明治31年(1898)8月で、以来今日に至るまで絶えることなく水道水が供給されています。水道が完成する以前は、河川の表流水が飲み水として多く利用されていましたが、その水がコレラや赤痢などの伝染病が発生する原因となっていました。明治27年(1894)に日清戦争が起こると、大本営が広島市に置かれ、臨時の帝国議会も開かれるなど、政治・軍事の中心地となり、水道の必要性が高まりました。こうした事情もあり広島市の水道は、天皇の勅令により軍用水道として敷設されることとなり、それに接続する形で市民水道の工事も行われ、同時に完成しました。
 その後、広島市の人口増加に伴い、明治以降今日に至るまで、水道施設の拡張工事が何度か行われ、それに伴い配水池も増設されています。右下の絵葉書は戦前の配水池の写真ですが、左下の現況写真と見比べてみると配水池の上屋の構造物が現存していることが確認できます。この配水池は、戦前・戦後を通じて、広島市民の生活や街の発展に大きく貢献した貴重な建造物といえそうです。

 配水池 配水池
文化財課指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真左:牛田浄水場配水池現況写真
               写真右:絵葉書『広島市水道配水池』(大正後期~昭和初期)



「紅葉シーズンも終わり」

2018.11.29

 11月も終盤となり、県内の紅葉もそろそろ見納めです。今月中旬に宮島の紅葉谷公園を訪れたときには緑、黄、オレンジ、赤のグラデーションがとても美しく、多くの観光客が足を止めては紅葉に染まる景色を写真におさめていました。
 紅葉を行楽として楽しむ習慣が広まったのは江戸時代といわれています。江戸時代には伊勢参りなど庶民の間で旅行がブームになりました。名所を紹介するガイドブックも多数出版され、紅葉の名所にも多くの人がつめかけたそうです。
 秋の季語にもなっている紅葉は、秋から冬にかけて樹木が葉を落とす準備を始めることで起こります。葉を落とす理由は、日照時間が減り光合成の効率が悪くなること、空気が乾燥する冬に向けて葉から水分が蒸発するのを防ぐことなどです。紅葉紅葉には葉が黄色く色づく〝黄葉〟と、紅く色づく〝紅葉〟があります。〝黄葉〟は、クロロフィルという緑色の色素がしだいに減少し、もともと葉に含まれていたカロテノイドという黄色の色素が目立つようになる現象です。〝紅葉〟は、葉と枝の間に水分や養分の流れを遮断する「離層」ができ、葉で生成されたブドウ糖が葉に溜まります。このブドウ糖が紫外線と反応してアントシアニンという赤い色素を生成し、葉を色づけるのです。
 毎年、私たちの目を楽しませてくれている紅葉ですが、樹木にとっては厳しい冬を乗り切り、生き抜くための手段なのですね。
 
文化財課学芸員 田原みちる / 写真:宮島 紅葉谷公園の紅葉



「数え年と誕生日」

2018.11.12

「お嬢さんはおいくつですか?」
「あたし? あたしは来年十二。」

「ではきょうは何の日ですか? 御存知ならば云って御覧なさい。」
「きょうはあたしのお誕生日。」

 これは1924(大正13)年に発表された芥川龍之介「少年」での、宣教師と女の子の会話の一部です。一見不思議な受け答えですが、当時は数え年という方法で年齢を数えていました。数え年では生まれた時が1歳で、年を取るのは誕生日ではなくお正月です。『源氏物語』では、匂宮がお正月に子どもの年齢が上がったことを祝っています。なお、一周忌の翌年が三回忌になるのも、「〇回忌」は数え年で計算するからです。
 数え年だと年齢と誕生日は無関係のため、江戸時代の宗門人別改帳(戸籍台帳)には生年月日の記録はありません。また、1949(昭和24)年公布の「年齢のとなえ方に関する法律」に「国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて…」という文言があるので、それまでは数え年が浸透していたと考えられます。
 では、昔の人にとって誕生日はいつもと変わらない1日だったのでしょうか。意外なことに、明治から昭和にかけての文学作品にも、誕生日にお祝いや贈り物をする習慣が出てきます。さらに、江戸時代後期に誕生日を祝うかどうかを調べた記録が残っており、地域によって毎年祝ったり、全く祝わなかったり、子供だけ祝ったりしていたようです。この調査の前提として、庶民も自分や家族の誕生日を覚えていたと推測されます。考えてみれば、法要を行ったりお墓に刻んだりする命日と同じく、誕生日も特別な日だったのでしょう。旧暦では閏月がありましたが、閏四月のように「閏+前月」と表記していました。閏月生まれの人は前月に誕生日をお祝いしたのでしょうか?
プレゼント  
文化財課主事 兼森帆乃加
【参考】鵜沢由美「近世における誕生日」
   『国立歴史民俗博物館研究報告』第141集 国立歴史民俗博物館 2008年



「人と動物の歴史」

2018.11.1

 朝晩と涼しくなり、行楽日和のシーズンがやってきましたね。私は先日、奈良と京都、宮島に行ってきました。日々の疲れがたまっていたので動物に癒されたいと思い、シカと戯れたり、水族館を訪れたりしました。現代では、私のように動物を癒しの対象としてみることもあれば、人間に危害を与えるものとして駆除することもあり、また、家畜として飼う場合もあります。そこで、ふといつの時代から人と動物がこのような多様な関わりを築いてきたのか気になり、調べてみました。
 まず、現在は主にペットとして飼われているイヌの場合。日本人とイヌとの関わりは、縄文時代から始まります。縄文時代では、狩猟犬として大事に育てられていました。しかし、弥生時代以降になると大陸から新たな生活文化が入り、食用として扱われるようになります。そして、江戸時代初め頃までは食用とされていましたが、徳川綱吉の時代になると生類憐みの令が発布され、イヌが保護されるようになりました。その後、武家だけでなく一般庶民もイヌをペットとして大切に飼育するようになりました。ちなみに、江戸時代中期頃に描かれた広島城下絵屏風にもイヌが描かれています。
 では、今回私が奈良と宮島で戯れたシカはどうでしょうか。現代でもジビエ料理としてお店で提供され、食べることもありますが、どちらかというと観光地や動物園にいる動物、または、農作物を荒らす野生動物というイメージが強いと思います。古代では、肉は食用として、角や骨は釣り針や銛先、装飾品として使われていました。また、シカ型の埴輪やシカの絵が描かれた銅鐸なども出土しており、儀礼的な扱いもされていました。奈良のシカについては、現在も儀礼的な扱いをされており、春日大社の神の使いとして古くから大切に保護され、昭和32(1957)年には、国の天然記念物に指定されました。
 ほかにも色々な動物を紹介したいのですが、今日はここまで。現代人と昔の人とでは、動物に対する印象や価値観が大きく違うところもありますが、人と動物が密接な関わりを持って共存しているということは今も昔も変わらないなと感じました。

 鹿 土人形
文化財課 学芸員 日原絵理 / 写真左:東大寺で出会ったシカ 写真右:左はイヌ、右は鞠を抱えたネコの形をした土人形(広島城跡法務総合庁舎地点出土)



「お地蔵さま」

2018.10.18

 墓石写真のお地蔵さまは、広島市平和記念資料館本館の耐震工事に伴う発掘調査でみつかったものです。お地蔵様というと古くからある道の辻(つじ)などにたたずむイメージが強いかもしれませんが、こちらはお寺の跡から発見された江戸時代の墓石です。
 今と違い、日本にも乳幼児の死亡率が高い時代がありました。「七つまでは神のうち」という言葉がありますが、七つになるまではこの世ではなく神の世界の存在だとして、高い身分の家を除き、子どもの葬送や埋葬を簡素に行う(場合によっては行わない)時代が長く続きました。
 子どものために、石工の手による墓石を建てることが広まるのは、江戸時代も半ば頃から。初期の子ども用の墓石は、舟形の石にお地蔵さまをレリーフしただけなどのシンプルなものでした。その後徐々に、没年や戒名などをあわせて彫り込むようになっていきました。
  拓本墓石に戒名が刻まれている場合、埋葬された子どもの性別とおおまかな年齢が分かります。写真のお地蔵さまの場合は、向かって右に 「如幻孩(がい)子(し)」とあるので、葬られたのは幼い男の子(「孩子・孩女」 は「童子・童女」よりも小さい2、3歳の幼児へおくられる位号)。向かって左に「文化四丁卯十月廿日」とあるので1807(文化4)年に亡くなったということがわかります。
 文化年間(1804-1817)というと、広島藩では第8代藩主浅野斉賢(なりかた)のもと特に文化や教育の発展に力が注がれていました。そんな時代に生きた小さな命の存在を、このお地蔵さまは静かに伝えています。

                      文化財課主任学芸員 荒川美緒
                             写真上/有像舟形墓石 写真下/墓石の拓本



「下水管」

2018.9.12

 広島平和記念資料館本館下(旧材木町)の発掘調査では、たくさんの、そして様々な種類の出土品があります。今回紹介するのは下水道の土管です。
 中島地区は広島で最も早い明治42年(1909)に下水道が竣工した場所です。下水道の本管は材木町筋の道路の下に配置され、そこには各家から支管がつながっていました。調査では、材木町筋の道路面から約2m下の場所から、釉薬がかけられた焼き物の土管が出土しました。この土管、直径は太いところで43㎝、細いところで35cm、長さは1.2mほどある大きな土管です。
 下水管本管の継ぎ手を見ると刻印がうってありました。この土管を製作した生産地を表す刻印と考えられたので観察すると、「萩」という字に見えたので、山口県の萩で作った土管なのかと思いました。いや、何か違うような・・・?拓本をとってよく見てみるとその字は「萩」ではなく「荻」という字でした。地名か窯名と考えられるのですが、資料を探しても該当するものが当たらず悩ましいばかりです。どなたかご存じないですか?
 下水管 下水管
 文化財課学芸員 桾木敬太 / 写真左:「出土した下水管本管」、写真右:「刻印の拓本」)



「「ノリ」のはなし」

2018.9.4

 先日、テレビドラマの一場面で「ノリ」を天日で乾燥させている江波の情景が放映されていました。今では広島の名産品といえば「カキ」が有名ですが、かつては「ノリ」も全国有数の産地として知られていました。太田川の河口付近には、川の水によって運ばれた土や砂が堆積して、広大な干潟が形成されていました。江戸時代にはその干潟を利用してカキやノリの養殖がおこなわれるようになりました。広島市内では仁保、江波、草津などでノリの養殖が盛んでした。
 江波右の写真は江波付近でノリを採取している様子です。干潟一面に竹ひび(ノリの胞子を付着させ生育させるために干潟に立てられた竹)が設置されています。場所によってノリの生育に差があったことから、場所はくじ引きで決めていたそうです。作業は12月から3月にかけて行われ、厳しい寒さの中での作業でした。
 採取したノリは、紙のように薄くすいた「すきノリ」に加工されました。ノリを包丁で細かく刻み、たらいの中で水に溶きます。それを木の枠に挟んだ簀(す)(幅1㎜くらいに細く割った竹を糸で編んだノリをすく道具)で紙すきのようにノリをすき、水気を切った簀を梯子(はしご)(梯子状になった木枠)に掛けて天日で乾燥させます。昭和30年代ごろまでは梯子を並べてノリを乾燥させる海沿いの風景が、冬の風物詩となっていました。
 豊かな恵みをもたらしていた広島湾岸の干潟ですが、明治時代以降の干拓やその後の埋め立てによって徐々に姿を消していきました。カキ養殖は干潟から沖合のいかだへ移動しましたが、ノリ養殖は干潟の減少とともに衰退していきました。しかしながら現在も広島にはいくつものノリ製造会社があり、機械化された工場でノリを加工するという形でノリの生産が続いています。

 文化財課指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真:絵葉書『江波の汐干狩』(明治末期~大正前期)
 【参考】『干潟の恵み~カキとノリの物語~』平成25年 広島市郷土資料館
     『ノリ養殖』平成4年 広島市郷土資料館資料解説書 第7集

▲このページのトップへ