学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「花より団子」

2020.3.5

さくらもち 3月に入り、もうすぐ桜の季節がやってきますね。広島の桜の開花予想は、3月20日前後だそうです。お花見に行くのも春の醍醐味ですが、花より団子の私は、春めいてくると無性に桜餅を食べたくなってしまいます。
 ご存知の方も多いと思いますが、桜餅には道明寺(どうみょうじ)桜餅と長命寺(ちょうめいじ)桜餅の2種類があります。道明寺桜餅は、丸い形をしており、蒸した道明寺粉(もち米を乾燥させ粉にしたもの)にあんこを詰め、桜の葉で包んであります。道明寺糒(ほしい)(道明寺粉)は、千年以上前に大阪にある道明寺というお寺で作られました。しかし、道明寺粉を使った 桜餅が発売され始めた時期やルーツは、はっきりとわかっていません。この桜餅は、関西~九州地方、東海地方、北海道を中心に食べられていて、広島も道明寺桜餅を扱う店がほとんどです。浮世絵
 一方、長命寺桜餅は、クレープのような薄く焼いた皮であんこを巻き、桜の葉で包んであります。この桜餅は、江戸時代に東京の向島にある長命寺の門番をしていた山本新六が桜の落ち葉を集めて何かに使えないかと悩んだ結果、考案されたと言われています。享保2(1717)年に長命寺の門前で売り始め、大ヒットしました。右の浮世絵には、桜が咲いている隅田川のほとりを二人の女性が桜餅の袋を提げた竿の両端を持って歩いていく姿が描かれています。この桜餅は、現在、関東甲信越地方や東北・山陰地方の一部で食べられています。
 ちなみにどちらの桜餅も塩漬けされた桜の葉に包まれていますが、この葉には、やわらかくて毛の少ないオオシマザクラの葉が主に使われています。
 まだ少し肌寒い日が続きますが、桜餅を食べて、春の訪れと日本の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

文化財課学芸員 日原絵理 / 画像下:『江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅』 元治元(1864)年(国立国会図書館蔵)

「広島駅周辺のデザインマンホール」

2020.2.4

モニュメント 先日、猿猴橋周辺を歩いていたところ、初めて見るマンホールがありました(写真1)。「西国街道」と書かれているとおり、このマンホールは西国街道のルートのうち、広島駅から中央通りにかけて設置されているようです。西国街道とは江戸時代の山陽道の別名で、京都から下関を結ぶ幹線道路であり、多くの人が行き来していました。珍しいマンホールは見るだけで楽しいですが、マンホールで道の歴史がわかるというのは良いアイデアですね。
 さらに、猿猴橋から広島駅の方へ少し歩くと、カープ坊やデザインと折り鶴デザイン(写真2)のマンホールがありました。カープマンホールは車道上のため黒一色でしたが、広島駅側の歩道でカラーのものを見た記憶があります。また、折り鶴といえば平和公園のイメージですが、プレート折り鶴マンホールは今のところ広島駅周辺にしかないようです。連なった折り鶴は矢絣(やがすり。矢羽が縦に並んだ模様)柄のようにも見えます。
 今回、広島駅周辺では3種類のマンホールを見つけました。デザインマンホールは様々な場所にありますが、何種類もデザインが見られる場所は珍しいのではないでしょうか。広島駅周辺を歩く際には、ぜひ足元にも注目してみてください。

文化財課主事 兼森帆乃加 / 写真1:西国街道マンホール                写真2:折り鶴マンホール

「小さなプレート」

2020.1.8

モニュメント このコーナーを欠かさず読んでくださっている方は、あれ?と思われたかもしれません。上の写真は昨年の2月に「そこにあるからこそのモニュメント」で取り上げた「UKARUKEINO “HIROSHIMA MOUDON”」です。今回ご紹介するのは、「牛神モードン」の周りの植え込みの北側についている小さなプレートです。
 かなりくすんだ色あい。脇を歩いて通った分には、いったい何のプレートなのかわかりません。立ち止まってようやく「広島修道院発祥の地 創立明治22年」と読み取れます。
 「修道院」というと、修道士や修道女が共同で宗教生活を行う場所とプレートいうイメージがわくかもしれません。しかしそうではありません。「広島修道院」は、明治22(1889)年に北村藤三郎が児童救済のために立ち上げた「広島修道学会」にはじまり、130年余を経て現在は、児童養護施設・乳児院に加え保育園も擁する歴史ある社会福祉法人です。
 社会が大きく変革し国を挙げて上昇志向が強まっていた明治時代に、北村は自宅を開放し恵まれない子どものために尽くすことを決心しました。太平洋戦争時には原子爆弾投下ですべての施設を焼失するなど大変な困難にも直面しました。しかし、志ある者は事竟(つい)に成る。北村の志は脈々と受け継がれさらに発展していきました。

プレート拡大 時代が変わっても、環境が変わっても、子どものためにあり続ける「広島修道院」。小さなプレートは、ここがその歴史を紡ぎ始めた場所であったことを伝えています。

文化財課主任学芸員 荒川美緒
写真:いずれも東区若草町で撮影

「オリオン座と星の和名」

2019.12.25

オリオン座 みなさんは一つだけ星座を思い浮かべるとしたらどんな星座でしょうか。おうし座やおとめ座といった誕生日の星座を想像する人もいるかもしれませんが、ほとんどの方はオリオン座を思い浮かべることと思います。
 オリオン座は冬の星座で、この時期の夜空を彩っています。明るい星4つを含む長方形と、真ん中に斜めに並んだ3つの星が目印で、冬の乾燥した夜空に誰が見ても目を引く形を一度は目にしたことがあるはずです。オリオンとはギリシャ神話に登場する狩人のことで、「この世で自分が倒せない獲物はいない」と威張り散らしたため、神の怒りに触れ、神が遣わしたサソリに刺されてあっけなく死んでしまった、という神話が残されています。
 ところで、オリオン座には赤い星・ベテルギウスと白い星・リゲルという特に明るい星が2つあります。岐阜県の方言にこの2つの星の色の対比から、ベテルギウスが赤旗の「平家星」、リゲルが白旗の「源氏星」と呼ばれたとされています。しかし、最近の研究によると、こう呼んでいた地方で源平の旗の色が逆に認識されていたことがわかり、現在ではベテルギウスが「源氏星」、リゲルが「平家星」という解釈がなされています。
 今回紹介したオリオン座の星以外にも、日本独自の呼び方がされているものもあります。例えば、おうし座にあるプレアデス星団は「すばる」、うしかい座のアークトゥルスは麦を刈る頃に空高いところに見えることから「麦星」、りゅうこつ座のカノープスは地平線ギリギリに見えたかと思うと、あっという間に沈んでしまうことから「横着星」と呼ばれています。
 このように、夜空に輝く星たちの名前に先人たちは様々な呼び方をし、星に親しんできました。冬は乾燥して空気が澄んで、星がとてもきれいに見えます。あの星にはどんな名前がふさわしいか、星座を探しとあわせて考えながら空を眺めるのも楽しいかもしれませんね。


《星の和名について参考になる本》
・北尾浩一『日本の星名事典』原書房、2018年発行

文化財課学芸員 髙土尚子

浅野氏広島城入城400年記念市民公開講座・生涯学習支援講座「城下町広島の記憶と継承」

2019.11.20

 毛利氏によって基礎が作られ、福島氏によって形が整えられ、浅野氏によって発展した広島の城下町。
 しかし原爆の惨禍もあり、現在の広島で城下町の記憶をたどるのは、意識していないとなかなか難しくなっています。それでも近年は近世の広島をたどるイベントや展示会が増えてきたように思います。今年は特に浅野氏の広島城入城から400年ということで記念イベントが目白おしになっています。その一環として「城下町広島の記憶と継承」と題した公開講座を全4回で開催します。多彩な講師の方をお迎えすることができ、様々な角度から、まさに城下町の記憶を現代に継承するというテーマに思いをいたすのにピッタリの講座になることと思います。
 ただ、現在、広報チラシや市民と市政などでご覧になった方から続々とご応募のお葉書が届き、定員以上となってしまったため抽選をせざるを得なくなりました。主催側からするとご希望された方全員にご参加いただきたいのはやまやまなのですが。これも広島の歴史に対する関心が深まっている結果なのでしょう。詳しい講座の内容や応募方法は当ホームページのイベント情報を見ていただきたいのですが、往復はがきで11月29日必着となっていますので、よろしくお願いします。 受付は終了しました。

文化財課主任学芸員 田村規充

「巡回ミュージアム」

2019.11.20

土人形 今年は、浅野氏広島城入城400年を記念して各所で様々な事業が行われていますが、当課においても記念事業のひとつとして「公民館・区民文化センター巡回ミュージアム」を
9月から開催しています。
 その内容は浅野藩政期から被爆までの広島をテーマとした巡回展で、「広島城下絵屏風の世界」、「絵で見る広島城の歴史」、「浅野藩政期の広島城遺跡」、「名勝平和記念公園内遺跡」という4つのテーマで構成されています。これまでは各会場ごとに1テーマの展示でしたが、12月2日(月)~12月11日(水)の期間は、JMSアステールプラザの市民ギャラリーで4つのテーマを一挙に展示します。
 それぞれの展示解説パネルに加え、これまでの発掘調査で出土した遺物も展示する予定です。ふだん展示されていない出土遺物を間近に見ることができる貴重な機会でもありますので、一人でも多くの方に展示をご覧いただきたいと思っています。みなさまお誘い合わせのうえ、ぜひ会場へお越しください!

文化財課指導主事 牛黄蓍豊 / 写真:土人形(広島城跡法務総合庁舎地点出土)

「伊万里の職人さんも筆の誤り?」

2019.11.11

 今回紹介するのは、広島平和記念資料館下の発掘調査で出土した古伊万里の輪花(りんか)小皿です(図1)。江戸時代後期の作だと思われます。植物と扇子、そして何やら幾何学的な文様が描かれています。
 この幾何学的な文様は、香道(こうどう)における組香(くみこう)のひとつ「源氏香(げんじこう)」の文様によく似ています。香木(こうぼく)を炷(た)き、香りを鑑賞する香道は桃山時代に成立し、日本独自の芸道として発展しました。香道の「組香」とは3~5mmほどの香木を掌(たなごころ)サイズの香炉で炙(あぶ)り、それぞれの香りの違いを嗅ぎ分ける一種のゲームなのですが、そのひとつに「源氏香」と名付けられたものがあります。
 ただし、「源氏香」の組香の場合、供されるお香は5回です。客は手元の記紙(きがみ)に、縦に5本の線を引いておき、「同じ香り」と思ったものを横の線でつなぐのが回答のルールです。このお皿の文様の場合、明らかに縦線が1本多いのです。
 5種のお香で「同じ香り」を横線でつないだ図の組み合わせは全52種。これを『源氏物語』54帖の最初と最後を除いた、「帚木(ははきぎ)」から「手習(てならい)」までの名を当てはめたのが「源氏香図」です(図2)。この文様は江戸時代中期に完成したとされているのですが、縦横の線の組み合わせで表され、ひとつとして同じ物のない52種の幾何学形は、眺めているだけでも面白く、さらには『源氏物語』の各帖の季節や人物の吉凶のドラマが連想されるわけですから、人々を魅了したのも不思議ではありません。現代でも、着物や帯、扇面に配されることがあります。
 ただ、残念ながら、江戸時代後期の伊万里の職人さんに源氏香の知識がなく、文様を写しているうちに1本多く線を引いてしまったのではないか、と想像しています。

文化財課主事 岩崎芳枝

小皿






図1:「源氏香図」の描かれた古伊万里の小皿
「初音(はつね)」の文様だとしても、縦の線が1本多い
源氏香図







































                     図2

「スポーツの秋」

2019.10.4

 秋といえば、「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」ということで、真夏の暑さも少し落ち着き、色々なことをしやすい気温になってきましたね。今回は「スポーツの秋」に着目し、「運動会」の歴史についてお話したいと思います。
 玉入れ 日本で運動会が行われ始めたのは明治時代。広島県では、明治19(1886)年2月に初めて運動会(県立学校小学校生徒大運動会)が開催されました。この運動会は、広島鎮台練兵場(現在の中区基町、ひろしま美術館付近)で行われ、県立学校の生徒357人と小学校生徒1,347人が参加しました。当時は学校に運動会ができるほどの広いスペースがなかったため、複数の学校の生徒が集まり、近隣の野原・河原・神社境内・練兵場などの広い場所で行われていました。そして、明治30年代に入ると生徒の増加や運動場の整備の改善により、各学校が校内で運動会を開催し始めます。
  二人三脚現在の運動会といえば、ダンスや徒競走、玉入れなどが一般的なプログラムだと思いますが、明治期も現在とさほど変わらず、二人三脚や障碍物競争、亜鈴体操、綱引などバラエティに富んだ種目が行われていました。
 運動会は現在の子どもたちと同じように、昔の子供たちにとってもお祭りのような楽しいイベントの一つでした。
※亜鈴(柄の両端に球形のおもりをつけた木製の体操用具)をもって行う体操のこと

文化財課学芸員 日原絵理

≪参考文献≫
『大日本教育会雑誌』第29号 大日本教育会 1886年
鶴岡英一『広島県における明治学校運動会の考察』1975年

「迷子の寛永通宝」

2019.9.27

 今年初めから行っていた平和記念公園レストハウスの耐震改修・増築工事に伴う発掘調査も終わり、現在は報告書の発行に向けて整理作業を進めています。今回の発掘調査では古銭が何枚も出土しましたが、土に埋まっていたためさびついていて、その場で種類がわかったのは数枚でした。そんな中で、調査を終えた区域に落ちていたのが写真の寛永通宝です。調査中は見当たらなかったので、風雨で周囲の遺構から流れてきたのでしょうか。やはりさびていますが、すぐに寛永通宝と読めて感動しました。
 寛永通宝には銅銭と鉄銭の一文銭と、真鍮銭と鉄銭の四文銭があり、四文銭は裏面に波模様が描かれます。また、一文銭のうち「寶(宝の旧字)」の「貝」の下の部分が「ハ」のものは比較的新しい時期、「ス」のものは比較的古い時期に造られたもので、それぞれ新寛永、古寛永と呼ばれています。造られた場所や時代によっては、裏面に「文」などの文字があるものもあるそうです。
 さて、今回見つかった寛永通宝は恐らく緑青(銅の化合物)をふいており、裏面に模様がないため、一文銭であることは間違いなさそうです。書体を見ると、肝心の「寶」の字の周りが汚れていて断定はできませんが、寶の最後の画が「目」の右下角から出ているため、字のバランスから推測すると新寛永ではないかと思います。さび落としできれいになればいいのですが、出土した場所がはっきりせず遺跡の時期を特定する参考にできないので、作業は後回しになりそうです。

表裏

文化財課主事 兼森帆乃加 / 写真左:寛永通宝(表) 写真右:寛永通宝(裏)


「天満神社の小さな石碑」

2019.9.12

 今年は、浅野長晟(ながあきら)が広島城に入城して400年。ところで、その際の足跡はご存知ですか?『知新集』には、和歌山藩主から広島藩主となった長晟が海路により広島に上陸し、天神坊(現・中島町 天満神社)で休息をとった旨が記載されています。元和5年8月8日と伝えられていますから、新暦では9月15日にあたります。
 中島町の天満神社といえば思い出すことがあります。昭和20年8月6日、広島市立第一高等女学校(市女)の生徒たちが学徒動員され、現在の平和記念資料館南側あたりで建物疎開の作業に従事していました。原爆被害により市女だけで666人もの生徒が亡くなりました。生徒たちを悼む文集『流燈』には、父母たちの亡き娘への思いが綴られています。そのなかに、「城子(むらこ)の最期」という文があります。これを執筆した坂本潔(きよし)・文子(ふみこ)夫妻こそが、天満神社を代々守ってきた社掌の一家でした。お母さんの文子さんは娘の被爆死を修学旅行生に語る活動を昭和50年に始めます。今に続くヒロシマの平和学習の礎となった方でした。文子さんが学生達に必ず伝えていた「平和のことよろしく」という言葉を彫り込んだ小さな石碑が、天満神社にひっそりと据えられています。昭和63年の逝去後、平成6年に坂本文子さんを偲ぶ人たちが寄進したものです。近くを通られた際には、社殿左の小さな石碑にも是非、心を寄せてみてください。

文化財課主事 岩崎芳枝

石碑天満神社







左側に縦書きで「左側に縦書きで「平和のことよろしく 坂本文子」と彫られた石碑。社殿の左側にあります
    現在の天満神社


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