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学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。


「「八尾空港」のこと」

2022.11.18

先日、大阪に出張に行った時のこと。耳なれない機械音が気になって上空を見上げたところ、頭上近くをセスナ機が飛んでいました。何事かと思って、携帯で検索してみたら、出張先の近所に「八尾空港」があり、そこに着陸しようとしてたみたいです。

 大阪には、関西国際空港と大阪国際空港(伊丹空港)の存在は知っていたのですが、3つも存在していたことは全く知りませんでした。この空港、八尾市内のけっこう住宅地のすぐそばにあり、驚きました。
 「八尾空港」について、調べてみると、いろいろ歴史があることが分かりましたので、ご存じない方のために簡単に紹介します。

この「八尾空港」、空港法に基づく分類では「その他の空港」に位置づけられています。(ちなみに、広島空港は、拠点空港(国管理空港)になります。)そのため、定期便の就航はなく、主として航空宣伝・写真測量・操縦訓練などの事業用や自家用の小型航空機やヘリコプターの発着に利用されているほか、陸上自衛隊や消防・警察の航空隊が利用しています。
 歴史としては、およそ90年前の昭和9年(1934)に、民間機パイロットを養成するために設立された「阪神飛行学校」がはじまりです(注)。離着陸訓練として農地を埋め立て東西700m、南北300mの芝生張滑走路が設けられました。
 しかし、軍備増強のため昭和15年(1940)に陸軍へ移譲され、阪神飛行学校は閉校、大正陸軍飛行場と改称されました。翌昭和16年(1941)には、敷地が約6倍に拡張されます。昭和19年(1944)7月には、京阪神防空のため編成された陸軍第11飛行師団司令部が置かれ、また二式単戦「鍾馗」、四式戦「疾風」装備の飛行第246戦隊・第246飛行場大隊が置かれます。この時期になると、飛行場周辺は格好の攻撃目標となり、空襲を受けた記録が残っています。
 戦後の連合国軍占領期には「阪神飛行場」と呼ばれていましたが、昭和29年(1954)に日本政府に返還された後、昭和31年(1956)に「八尾飛行場」と改称されました。その後、昭和36年(1961)に空港整備法により第2種空港の指定を受け、現在に至っています。

(注)開校年については、八尾市立図書館や陸上自衛隊八尾駐屯地のホームページや『日本民間航空史話』   (日本航空協会1966年)では昭和13年(1938)の記述がありますが、国土交通省近畿地方整備局大阪    港湾・航空整備事務所ホームページに基づき昭和9年(1934)としています。

 文化財課主幹学芸員 高下 洋一
      

画像1:空港に着陸するセスナ機(向かって左側に空港が所在)
画像2:空中写真(中央が八尾空港)方角:上方が北
    【国土地理院地図・空中写真閲覧サービス からダウンロード







「糸切り痕」

2022.11.7

現在サッカースタジアム建設工事に伴う発掘作業で出土した遺物の実測作業を行っています。出土した土器の底を見ると同心円状の文様が残っているものがあります。(画像1)

これはろくろで器を作る際に土台の粘土と土器を切り離す時、糸(「しっぴき」というそうです)を使うことによりできる文様です。ろくろの回転方向により文様の付き方が変わります。なお、この回転方向は器を底(下)から見たのではなく、ろくろを上から見下ろした時の回転方向をいいます。茶入では「唐物は左回転、和物は右回転」とあります。しかし土器を見てみると、左右どちらの回転の物もあるようです。
 実験してみたら、楕円状の痕跡が土器を底の方から見た時に左に傾いてると右回転ということが分かりました。(画像2)

 そういうわけで上の写真の土器は右回転のものとなります。また、矢印のひげのような痕は糸を引き抜いた時にできたものであることも分りました。この回転方向の違いが時代の差、地域の差、工人の差を表すものかは今後の土器同士の慎重な検討が必要です 。

文化財課主幹 中山 昭大
      

画像1:サッカースタジアム建設工事に伴う発掘現場で出土した土器
画像2:「しっぴき」実験でできた糸切り痕






「幸せの青い鳥」

2022.9.22

光町に通勤するようになって、見かける生きものといえば、やさぐれた猫たちか、さしてフレンドリーではないカラスくらいなのですが、時々ビルの上から透き通った美しい鳥のさえずりが聞こえることに気づきました。

どんな声かというと…………、「ツツピーチョ ヒーチョイチョピーチョ……」だめだ書けない。それはそれは、字にも書けない美しさなのです。

最初はマンションで飼われている、さぞや由緒ある鳥なのだろうと思っていましたが、自宅の周辺で頻繁に耳にする声と同じだということに気づきました。ようやく正体がわかりました。「イソヒヨドリ」という、その名のとおり、元々は海辺の崖などに生息する鳥でした。最近は都会のビルの屋上などにも進出しているのだそうです。

ヒヨドリといってもツグミの仲間です。メスは前身灰色のウロコ上の模様で、初めて見た時は「ついにトラツグミを見た」と思ったほどです。対してオスは濃い青におなか部分は赤という、とてもきれいな姿です。早春から6月くらいによくさえずりますが、それ以外でも、お天気がよくて気分がのると歌うそうです。9月になってからもビルの上で羽ばたきながらさえずっていました。

実はこの鳥、マツダスタジアムにも営巣しているのです。赤い人たちが行き交う上で気にもせずさえずりながら、時には虫をくわえながら飛んでいます。「幸せの青い鳥」とも言われるそうですが、気の毒なことに、カープには幸せは招いてはくれませんでした。来シーズン、観戦に行くことがあれば、試合前にちょっと見上げて耳を澄ましてみてください。

文化財課学芸員 岡野 孝子


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画像1:庄原の電柱の上で軽めにさえずっていたメス
画像2:マツダスタジアムのバックネット上のオス
 ※  スマートフォンで撮影した写真なのでボケています。






「古写真」

2022.9.13

相生橋が架かる中区中島町の北端は、慈仙寺の鼻と呼ばれています。慈仙寺は、現在江波の皿山(中区江波二本松一丁目)にあります。平和記念公園が整備されるまでは中島の地にあり、総面積3,630㎡、本堂に観音堂や地蔵堂も建ち並ぶ浄土宗西山派の大寺院でした。

元々は、毛利氏の本拠地であった吉田の青光山(現在の安芸高田市吉田町常友)で開山しましたが、毛利氏に続いて広島入りした福島正則から寺地を与えられたことをきっかけに、慶長13年(1608)に新川場町に、慶長14年(1609)に中島本町(現在の中区中島町1番)に移転しました。慶長15年(1610)に、吉田から本堂を移し、吉田の寺は廃寺としたとの記録が残っています。慈仙寺の移転により、西国街道から北へ抜ける道は「慈仙寺小路」と、太田川が本川と元安川に分岐する箇所に面した地は「慈仙寺の鼻」(画像1)と呼ばれるようになりました。「慈仙寺の鼻」は、太田川の水運による物産集散地で、豪商が軒を並べ、繁華街の一角を形成していました。

明治時代の広島市街の様子を知る手がかりとして、『広島諸商仕入買物案内記並びに名所しらべ全』があります。明治16年(1883)に発行され、主に旧西国街道沿いの店舗や名所を絵入りで紹介する商工便覧です。ここに、田中幸左衛門が慈仙寺の鼻で営んでいた写真館「精看堂」(画像3)も掲載されています。当時の写真は、写真乳剤(注1)を塗布した無色透明のガラス板に光線をあてて撮影するもので、感度が低いため、明るい場所でないと撮影することができませんでした。当時の広島にはまだ電力会社(注2)がなく、電気が使えない時代でしたので照明をあてることができず、自然光を効果的に利用して撮影する必要がありました。「精看堂」の様子を見ると、写場を屋外に設置し、周囲を白幕で囲むなど、採光に工夫を凝らしていたことがうかがえます。
 ここに掲げた古写真(画像4)は、明治9年(1876)8月に撮影されたものと伝えられており、明治33年(1900)に沼田郡川内村(現在の安佐南区川内)から長男とともにカナダに移民した人物が写っています。髷(まげ)を結った姿から、明治4年(1871)に「断髪令」が出されてからも髷(まげ)を結う習慣が残っていたことがうかがえます。この画像を記録したガラス乾板は,桐製の木箱(画像5)に収められていて、蓋裏に「田中精看堂」の押印(画像6)があることから、田中幸左衛門が慈仙寺の鼻にあった写真館「精看堂」で撮影したものではないかと思われます。

(注1)   感光物質である銀塩の結晶がゼラチンの中で分散しているゲル状の素材。
 (注2)  広島市における電気事業は、明治22年(1889)に設立出願、明治26年(1893)年に認可、明治
     27年(1894)に開業した広島電灯株式会社が始まり。日本の電気事業が始まったのが明治20年
     (1887)で、明治22年(1889)時点では東京のほかに神戸・大阪・京都の3都市で開業済みとい
     う段階。

文化財課指導主事 福島 忠則

      画像1(の箇所が慈仙寺の鼻)               画像2

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画像1:広島市街明細地図(明治15年)抜粋/所蔵:広島市公文書館
画像2:『広島諸商仕入買物案内記並びに名所しらべ全』(明治16年)中表紙/所蔵:広島市郷土資料館

画像3:『広島諸商仕入買物案内記並びに名所しらべ全』(明治16年)No.198/所蔵:広島市郷土資料館

画像4:肖像写真/所蔵:広島市市民局文化スポーツ部文化振興課

画像5:肖像写真のガラス乾板を収めた桐箱/所蔵:広島市市民局文化スポーツ部文化振興課

画像6:桐箱の蓋(裏側)に押された印影/所蔵:広島市市民局文化スポーツ部文化振興課






「文化財課周辺の戦跡 その2」

2022.8.29

文化財課から歩いて行ける範囲で、今でも見ることができる戦跡として、二葉山高射砲陣地に続き尾長山照空陣地を紹介します。


尾長山照空陣地

 文化財課から北北西の方向にある二葉山から、東の方角に標高181mの尾長山があります。麓から立木などに隠れてほぼ見えませんが、現在山頂には昭和37年に航空障害灯(注1)が設置されています。この航空障害灯のある場所には太平洋戦争中、陸軍の照空陣地が置かれていました。
 照空陣地とは、夜間飛行してきた敵機を照空灯(サーチライト)で照らし、位置を示すことによって高射砲や航空機で反撃をしやすくするために置かれた陣地です。昭和26年に復員局で編纂された「本土防空作戦記録(中部地区)」を見ると、各照空隊には九三式野戦照空灯と九〇式小聴音機が配備されていたようです。また、照空隊は初照必捉を目指しますが、敵機の夜間爆撃において、性能的に中等高度以下(3,000m程度以下か?)で辛うじて戦闘の目的を達することができたと書かれています。
 尾長山照空陣地は、地形的に見てすぐ隣の二葉山の高射砲陣地と一体的な運用も行われていたと想像できます。しかし、軍の資料をいろいろ探してみたのですが、尾長山照空陣地のことが書かれている資料は見出すことができませんでした。
 昭和19年6月頃、西部高射砲集団隷下の高射砲第百三十五連隊(注2)の第二中隊が二葉山の高射砲陣地に駐屯していたことはわかりますが、この時点の照空陣地は、五日市と似島の2か所しかなく、尾長山の名前は出てきません。
 昭和19年6月末には、広島にいた高射砲第百三十五連隊は北九州に移転します。高射砲部隊は遠賀川河口付近に集結配置され、照空隊は遠賀川以西の地区に展開し、主に飛行団の夜間戦闘に協力をしています。(注3)昭和19年10月14日には、高射砲第百三十五連隊を基幹として、独立高射砲第二十二大隊と独立照空二十一大隊が新たに編成されています。
 独立高射砲第二十二大隊長だった加藤恒太少佐の証言(注4)では、昭和19年11月時点では、独立高射砲第二十二大隊は広島にいたことになっています。昭和20年1月頃に福岡県芦屋飛行場に派遣されますが、2か月で再び広島に戻っています。この前後に尾長山の照空陣地も構築されたのではないかと推測されます。加藤氏の記憶で書かれた昭和20年8月6日の広島防空隊配置図をみると、独立高射砲第二十二大隊の大隊本部は元宇品に置かれ、高射砲陣地は大阪より支援の部隊も併せて、元宇品、二葉山、江波山、海田市、打越、観音、東雲の7か所あり、照空陣地は、尾長山、牛田(新山)、江波山、船越、矢野、己斐(茶臼山)、田方(行者山)、金輪島の8か所あったことがわかります。
 現在、尾長山に登ってみると山頂には航空障害灯はありますが、その周囲に戦時中に作られた円形の照空灯座が確認できます。さらに照空灯座の周囲には建物(兵舎?)跡の一部やコンクリート水槽などをみることができます。しかし、急斜面の場所もあるため戦後に崩れてしまったのか?聴音機壕の痕跡を見つけることはできませんでした。
 尾長山は二葉山に比べ、遊歩道(登山道)が整備されておらず、足元の悪い箇所もあるので、登られる際は、しっかりとした装備で登られることをお勧めします。 

(注1)  西区観音新町にあった広島空港(のちの広島西飛行場)のための航空障害灯であったため、現在は使用されてはいない。
(2) 「本土防空作戦記録(西部地区)」の記載では、広島に展開する部隊は高射砲第百三十四連隊と記されているが、組織表   を見ると、西部高射砲集団に隷属し留守第五師団長の指揮を受ける部隊は高射砲第百三十五連隊とあるため、高射砲第百三   十五連隊が正しいと判断した。
(3) 「本土防空作戦記録(西部地区)」昭和2610月調製 復員局
   国立国会図書館デジタルコレクション
(4) 『高射戦史』下志津(高射学校)修親会編著 1978 に掲載

文化財課学芸員 秋政 久裕





画像:上左:昭和20年7月25日に米軍が撮影した航空写真(部分拡大)

        国土地理院 USA-M335-9253(写真番号25S

 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1608152

 赤丸が照空灯座の位置 黄色の四角が建物

 上右:照空灯座の石垣

   下左:コンクリート水槽

下右:尾長山から二葉山を望む