学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「はじめてのチェーンソー」

2023.3.29

 3日間チェーンソーの研修を受けに行きました。 周りは屈強なメンズばかり。高まる緊張をほぐすため「きっと見掛け倒しよ。負けんで。」「決して腰を引かず格好よく。」と言い聞かせながら臨みました。 スロットルレバー全開の「ブーーーーン!!」というエンジン音でいきなり涙目になりながら、まず横向きに置かれた木を切断する「玉切り」を体験しました。なかなかいい感じにできました。

  そして伐倒(木を切り倒す作業)の基本である「追い口切り」にチャレンジ。大切な細かい工程がたくさんありますが割愛して紹介します。 ①切りたい部分に「受け口」という口みたいなものを作ります。深さは木の直径の1/4以上で、30~45度の会合(かいごう)線がぴったり合うことを目指します。この口の向きで倒れる方向がほぼ決まります。②反対側から「受け口」に向かって水平に切り込み「追い口」を作ります。③この時「受け口」と「追い口」の間に直径の1/10程「つる」と呼ばれる部分を切り残します。④倒します。口で言うのは簡単です。

  まず「受け口」の会合線を合わせましょう、と言われても理想は現実と違います。先生にチョークで印をつけてもらいますが、屈強なメンズでさえ、ゆがんだカエルの口みたいになってしまいます。次の「追い口」は中が見えないのでとても神経を使う行程です。「つる」は木が倒れる時、いわば蝶番(ちょうつがい)の役割を担う大事な部分となります。「つる」がゆっくりちぎれながら倒れる仕組みです。「つる」の幅が太過ぎると倒れにくく、逆に細すぎるとすぐ倒れてしまいます。また幅が平行でないと、倒れる方向が制御できないので、どれをとっても危険な事態を招きます。この日も調子に乗って切りすぎるメンズが続出でした。そして①~③がすべてうまくできたことにして、お馴染みの「倒れるぞおおおおお!」を大声で叫びます。私はこれが1番上手にできたと思います。先生にも褒(ほ)められました。最後に「追い口」にくさびを打ち込むと、メリメリメリ音を立て木が倒れるわけです。

 この実にシステマティックな方法は、チェーンソーが生まれるずっと前から、既に日本でも行われていました。江戸時代後期までは斧のみで、それ以降は「受け口」を斧で、「追い口」をのこぎりで作るようになったそうです。道具が進化しても、昔の人の知恵と工夫が受け継がれていることに感銘を覚えました。

 今回の研修で、伐倒作業が豪快かつ繊細で奥が深い世界であると知ることができました。そしてとてつもなく危険な作業であることを再認識しました。ホームセンターで手軽に入手できるチェーンソーですが、決して軽い気持ちで使ってはいけません。

 庭木の伐採の際にはご用命をお待ちしています。

※会合線:真横と斜め上の2方向から切り進んだ口元の一直線に出会うラインのこと。

 おい口の切り方  木の断面

写真左:「追い口切り」の切り方 
写真右:「玉切り」で初めて切断した木の断面(なかなか美しい切り口)


文化財課学芸員 岡野 孝子

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「吉島飛行場と海軍機」

2023.3.9

 私は現在、発掘調査にも関連させつつ、広島市内にあった軍施設の調査をしています。かれこれ10年以上、陸軍の関係の資料調査をしていますので、陸軍の研究は私のライフワークになった気もしています。

 先般も、東京の市ヶ谷にある防衛省防衛研究所史料閲覧室を訪問し、広島関係の旧軍資料を探していると吉島飛行場に関する資料が目に留まりました。

 現在の広島市中区光南に存在した陸軍の吉島飛行場は広島飛行場と呼ばれる場合もありますが、官報によれば昭和11年(1936)3月に広島県佐伯郡大竹町(現大竹市)に民間飛行場として広島飛行場が置かれ、昭和18年(1943)1月に廃止になっています。吉島にあった飛行場を広島飛行場と記す軍の資料もあるのですが、多くは吉島飛行場と表記されており、過去にあった広島飛行場との混乱をさける意味でも吉島飛行場と呼んでいたと思われます。吉島飛行場は短期間運用されただけの飛行場で、記録された資料も少なく全容がはっきりしません。

 吉島飛行場は、広島工業港建設に伴い工事された吉島地先の埋立地に昭和19年(1944)に造られています。『中国地方総監府誌 原爆被災記録』(1972)の中の竹内喜三郎氏の手記によると、昭和19年4月29日に宇品の船舶輸送司令部(原文のママ:正式には船舶司令部)権藤少佐(兵器部長)、から建設の指示が出て、緊急工事で5月9日には大体完成させたとあり、土盛りをして地ならしをする程度の工事で造られたようです。

 ここでは対潜哨戒を行うカ号観測機(オートジャイロ)を駐機させ、広島湾で陸軍の特種船あきつ丸への離艦着艦訓練にも利用されていたようですが、あきつ丸は昭和19年11月に五島列島沖で撃沈されますので、カ号観測機の運用自体はそんなに長くはなかったと思われます。

 昭和20年(1945)8月10日の「陸軍航空本部技術部広島爆撃調査報告」の中に“飛行機ニ対スル被害 中心部ヨリ約四粁離レタル広島飛行場ニアリテ掩体内二入レアリシ六航軍双発高等練習機爆風ノタメ尾翼及胴体小破又露出シアリタル通信教育隊「キ八十四」一機胴体ヲ下方ニ圧壊セラレ且操縦席付近ヨリ発火シ大破シアリ”と記載があります。六航軍(=第六航空軍)や通信教育隊の記載があることから、終戦時は航空総軍隷下の第六航空軍の管轄になるのかと漠然と考えています。

  今回防衛研究所で見つけた資料は、下志津飛行学校第三教導飛行師団第三教導飛行隊内に昭和20年に編成された“海燕隊”の隊長であった田中弘次氏に対して昭和37年(1962)に聞き取りしたメモです。その記述によれば、昭和20年1月に第三教導飛行隊(海燕隊)が銚子から吉島飛行場に移駐したようですが、6月には朝鮮半島に移り第五航空軍の指揮下に入っています。田中氏によれば、海燕隊は磁気探知機を使用する対潜哨戒の部隊で、九八式直接協同偵察機6機と一式双発高等練習機約20機さらに零式水上偵察機6機を持っていたと書かれています。注目すべきは、海軍機である零式水上偵察機を陸軍が持っていた点です。私は、今まで陸軍が海軍の機体を運用していた事実を聞いたことはありません。田中氏のメモによると、田中氏自身が海軍に習いに行き、零式水上偵察機を貰ってきたようで、このことは「戦史に残すべきでしょう」と自らも書かれていました。

 海軍の零式水上偵察機には対潜哨戒用の磁気探知機(三式一号探知機)が搭載された機体もあったようで、この性能の比較の意味もあったのでしょうか?残念ながら、詳しい経緯についてはメモには書かれていませんでした。

 いずれにせよ、陸軍が海軍機を運用することは超レアなケースであり、吉島飛行場は水陸両用の飛行場として使われていた時期もあったことがわかりました。被爆直後の昭和20年8月8日に米軍が撮影した吉島飛行場には2か所スロープの様な箇所がはっきり写っています。当初これは埋立の土砂を運ぶ台船を着けた場所の名残かと思っていましたが、水上機を引き上げる場所であったかも知れません。 引続き吉島飛行場については、管轄の部隊を含め継続して調査を行いたいと思います。

 吉島飛行場  写真:昭和20年8月8日 米軍撮影写真(5M220 109W)
   部分切り取り(国土地理院ウェブサイトより)

※矢印(加筆)はスロープの様な箇所

文化財課学芸員 秋政 久裕

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「北の家」

2023.2.21

 立春も過ぎ、寒さも一段落ということで若干時期を外してしまった感もありますが、2月上旬に出向元の北海道埋蔵文化財センターに業務報告のため帰った際撮った札幌近辺の「冬に備えた」住まいについて紹介します。

 外見でまず目につくのは瓦がないことです。雪降ろしの時に落ちてしまうからでしょうか、瓦屋根の家を見ることはほぼありません、主にトタン葺きです。屋根の形も三角屋根は減って (雪が落ちて危険)、無落雪屋根と呼ばれる平らで煙突の排熱で雪を解かすものが増えています。雪降ろしもしなくて済むので安全です。雨どいは雪と氷で壊れてしまうので無く、雨戸も凍り付くのでありません。窓が大きいと室内の熱が逃げやすいので全体的に窓は小さめ。また、一重窓だと外と内の気温差がありすぎて内側がびっしり結露してしまうので二重窓が大前提で、三重窓も珍しくありません。ガラスもペアガラスが多い(つまり二重窓にはガラスが4枚入っている状態)です。壁の断熱材も厚さ10~20㎝のものを使っています。断熱材の薄い古い家ではストーブを消して30分も出かけると水道管が凍ってしまうので暖房は切れません。暖房は灯油ストーブが主流で、他にガスストーブ、薪ストーブ、ペチカなんてものもあります。ストーブの換気は外窓が凍って開けられないので煙突かFF式です。入口は玄関扉1枚では寒さを防げませんので中に一枚ガラス戸を入れるか、風除室(玄関フード)というガラスで囲った温室状の前室がついている場合も多いです。また、家の向きは西向きも多いように感じています。夕方まで日が差す西日を最大限活用したいということのようです。

北の家 玄関内のガラス戸 風除室

写真左:屋根が平らで窓が小さい家並み
写真中:玄関内のガラス戸
写真右:風除室(玄関フード)


文化財課主幹 中山 昭大

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「新年度に向けて」

2023.2.10

 当課では、このところ出張事業で使う材料の準備で大忙しです。画像は、「広島歴史探検隊」ボランティアのみなさまにご協力いただいての、オーブン陶土を使った飾りづくりの様子です。
 
 縄文よりひもづくり』体験では、麻でできた紐をより合わせて強度を高め、アクセサリーを作ります。

 日本では、縄文時代の遺跡から、麻でできた繊維が出土しています。その後、弥生時代に中国から絹が伝わり、平安時代頃に綿が伝わりました。自然から手に入る繊維は短いので使いにくく、力を加えると切れやすいものなので、この短い繊維を束ねてひねることでつないでいき、長く太くすることで切れにくくなります。これが糸で、糸をより合わせてより太く丈夫にしたものが紐、縄、ロープです。日本では、土器に縄を押しつけて文様にしていることから、縄文時代に繊維をより合わせて縄を作り、使っていたことが確認できます。  

 麻紐をより合わせてアクセサリーを作ることを通して古代の生活の様子を想起し、学びの一助としていただければと考えています。仕上げに、土器のような風合いの飾りをよりひもに取りつけていただくのですが、この飾りは全て手作りの1点ものの作品なのです。ひとつ、ふたつと作る分には困りませんが、30,40と作り進めるとデザインのアイデアが枯渇し、すでに作った飾りと似たようなデザインになってしまいます。出土した土器が様々あることから考えると、古代の人々は仲間で集まってアイデアを出し合い、様々に工夫を凝らした土器を作り出していったのでしょう。「ひろしま歴史探検隊」ボランティアのみなさまと意見を交換しながらオーブン陶土を使った飾りづくりを進めることで、古代の人々の生活を追体験している感じです。

 新型コロナウイルス感染拡大防止のためのイベントの制限が緩和されつつあり、新年度には出張事業の依頼も増えそうです。準備した材料が活用されていくことを思うと、今から楽しみです。

 オーブン陶土  オーブン陶土
 粘土飾り  粘土飾り

写真上左右:オーブン陶土を使った飾りづくりの様子
写真下左右:乾燥中のオーブン陶土を使った粘土飾り


文化財課指導主事 福島 忠則

                                   
2023.3.29
「はじめてのチェーンソー」
2023.3.9
「吉島飛行場と海軍機
2023.2.21
「北の家」
2023.2.10
「新年度に向けて」

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