学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「まがたま」をつくる

2010.6.30

まがたま1 勾玉(まがたま)は、動物の骨やキバなどに穴を開けたものがその原型ともいわれています。弥生時代になると、ヒスイやメノウ、水晶などの石のほか、ガラスや土を素材とする勾玉も作られるようになります。
 勾玉づくりには高度な技術が必要でした。そのため、大和朝廷の時代には、朝廷へ献上する玉類の製造に従事する「玉造部(たまつくりべ)」と呼ばれる専門の技術集団や工房も作られました。身近なところでは、良質な碧玉などの産出地であった島根県松江市の玉造(たまつくり)が有名ですね。
  さて、7月のボランティア研修会では、滑石という軟らかい石を削って勾玉を作りままがたま2す。今回は、黒地にマーブル模様が美しい「黒滑石」と淡いピン
クの「紅滑石」を使います。ちなみに、できあがりは写真のとおり。古代の人々の技と心に思いを馳せながら、自分だけのお宝を作ってみましょう!

文化財課学芸員 田原みちる

毛虫なんですが…

2010.6.1

クスサン1 魚釣りには欠かせない釣り糸ですが、戦後にナイロンテグスが登場するまで流通していた天然テグスはなんと「クスサン」という蛾の幼虫の内臓(絹糸腺)から作っていました。この幼虫の内臓を酢に15分ほどつけて一気にのばすと見事なテグスに変化するわけですが、最近このクスサンの幼虫をめっきり見なくなりました。栗の木に大量につく害虫で見た目から「シラガタロウ」などと呼ばれています。見かけた方は文化財課にご一報ください。

文化財課学芸員 桾木敬太/写真上:6月くらいにはよく見かけます。・写真下:刺さないので意外とかわいいやつです。クスサン2

ツタンカーメンのエンドウ豆ご飯

2010.5.19

ツタンカーメンのエンドウ豆ご飯1 ツタンカーメンのエンドウ豆で豆ご飯を作ってみました。 作り方はいたって簡単です。普通のエンドウ豆と同じ要領で作りました。
 ①エンドウ豆はさやからとり出して1カップ分程度を用意し、水を替えながら2~3回洗います。
 ②米2合を洗い、酒大さじ3~4を水に加えて適量の水の量にします。
 ③②に塩大さじ1を入れて炊飯器のスイッチをONです。 炊き上がって2~30分蒸らしたら写真のように炊き上がりました。 茶碗によそっているあいだに赤味が増してきました。 ツタンカーメンのエンドウ豆ご飯2

文化財課長  幸田 淳

残念な装飾須恵器

2010.5.18

装飾須恵器1 「なんじゃこりゃ?」
 平成19年の上ヶ原遺跡(安佐北区可部町)発掘調査で出土したUFOのような謎の須恵器。割れた破片の大半が流れたりして失われてしまい、元々の姿がよくわかりません。これまでの市内の調査では出土例もなく、全国例でも、なかなか見当たらない。何だろう?と首をかしげていたものです。
 現在、3年にわたった上ヶ原遺跡の現地発掘調査も終わり、土器の図面を作成する作業をしている所で、観察していると胴体のまわりに刀のつばのように取り付いている帯の上に等間隔に何かが剥がれたような跡が見つかりました。ここに何か付いていたはず、というわけでピンときたのは装飾須恵器。装飾須恵器とは、古墳時代に見られる壺などの肩に動物、人物、小さな器などをいくつも付けるなど装飾の付いた須恵器です。
 早速、土器の整理作業などをしているベテラン作業員さんに色々な装飾須恵器の図面をみてもらいました。すると驚くほど早く、「これでしょう」と帯の剥がれ目にピッタリ付く器の台の部分を見つけてこられました。さすがという他ありません。これが決め手となり、図面を何とかとることが出来ました。完全な形にはならなかったので、はっきりとは言えないのですが、本装飾須恵器2来は、台が付いた大きな壺とその胴にぐるりと付いたつば状の帯の上に小さな器がいくつか付いていた子持台付壺と呼ばれるタイプの器と考えられます。
 このように発掘調査で出土する土器は(尾根筋や傾斜面にある遺跡は特に)、完全な形になるものの方が少なく、特徴をとらえるのに四苦八苦します。今回の装飾須恵器、かえすがえすも残念なのは、無くなった部分。完全にそろっていれば、見栄えも美しく、展示会などでの目玉にできたでしょうに。こんな時、あのドラ●もんのタイムふろしきがあればなァと嘆息するのです。

文化財課学芸員 田村規充/写真上:UFOのような須恵器・下:なんとかとった図面

ツタンカーメンのエンドウ豆

2010.5.13

ツタンカーメンのエンドウ豆1 昨年の冬にボランティアさんから「ツタンカーメンのエンドウ豆」という豆をいただいたので文化財課の前の花壇?で栽培してみることにしました。ツタンカーメンの墓を発掘した際に見つかったといわれるエンドウ豆ですが、普通のものと違って花が青紫色で、サヤも紫色をしています。順調に育ち、今ではサヤが鈴なりになっています。もうすぐ収穫の時期なので、豆ご飯にでもして試食してみようかと思います。豆ご飯にすると面白い変化が起こるそうで…、乞うご期待!

文化財課学芸員 桾木敬太
ツタンカーメンのエンドウ豆2

出張授業

2010.5.11

ハニワ作り 小学校では6年生になってはじめて歴史の学習がはじまります。4、5月はちょうど古代について学ぶので、それに合わせて出張授業の依頼を数多くいただきます。
 中でも特に依頼が多いのが、ハニワ作り。1㎏の粘土を使って高さ20㎝程度の小さな人物ハニワの完成を目指します。
 小学生の手の中で次第に形となっていくハニワは、表情・ポーズ・飾りとそれはそれは個性にあふれ、良い意味でこちらの期待を裏切るものばかり。世の中のあらゆるものをハニワに造形した古墳時代の人々に思いをはせつつ進む出張授業は、今どきの小学生の独創性に圧倒される時間でもあります。

文化財課学芸員 荒川美緒/写真:ハニワ作りの様子

「芸藩通志」を歩く

2010.4.23

滑滝 近年、地域の魅力を再発見しようとする取り組みが盛んとなっている。こうした中、埋もれていた史跡や文化財などが、地元の人々によって説明板が設置されたり、「町歩き」のコースに取り入れられたりと、地域の大切な資産として改めて掘り起こされる様になってきた。
 今から約二百年前の江戸時代後期の広島でも、そうした地域の「宝」に着目した書物がつくられた。当時の代表的な地誌として著名な「芸藩通志」である。完成は1825(文政8)年。内容は各地からの報告に基づき、豊富かつ多岐にわたるが、古蹟や名勝も採録され、花の名所や滝、奇岩といった景勝地、史跡、伝説地などが地域ごとに列挙されている。その凡例によれば、「全ての古蹟名勝を編者自ら実見できないので、中には見どころがないものも含んでいるかも知れないが、とりあえず各地からの報告をそのまま載せた場合もある。奇勝をもらす心配があるからである。」との旨が書かれている。つまり、ここに載っているそうした場所は、基本はそれぞれの地域から編纂当局に推挙されたものたちである。当時の人々も、自分たちの住む地域に、多くの「宝」を見出していた。
 しかし、その中には、今では多分地元ですらほとんど忘れ去られているのではないかと疑われるものも多く見受ける。例えば、現在の安佐北区可部町綾ヶ谷一帯に当たる旧高宮郡綾谷村に、「滑滝」という名勝地がある。その説明によれば「左右に岩がそびえ、底は一面の石で、最も奇観である。」と称賛されている。この記事のもととなった地元からの報告をたどると、さらに「古今を通じ賞美されている」とまである。にもかかわらず、不思議にも今では市民のほとんど誰も知らない。「芸藩通志」所収の綾谷村の図によれば、この滝は、南原川の支流で南原から大畑に抜ける道路沿いを流れる小南原川にかかり、今でも付近に「滑之上」「滑之下」という地名が残る。私はここをしばしば車で通るが、道路の側を流れる小さな滝の連続には気付いてはいたものの、大して注意を払わないでいた。しかし、この「芸藩通志」の記事で、二百年前当時は事情が違っていたのかも知れないことに気付かされて驚き、改めて、車を停めて流れをのぞき込んでみた。花崗岩の一枚岩でできた様な岩盤を、段々となって延々と滑る様に落ちる滝。道路のせいで流れの幅が狭まっている様だが、道路がなかった頃はあの記事の様にさぞ美観で、今はその片鱗しか残されていないのかも知れない。地元でも気付く人がいないのか、説明板も見かけない。ただ、これほどの一枚岩の様な岩盤上を延々と滝が滑る光景は、確かに市内では見かけた記憶がなく、そうした意味でも本来もっと知られるべき貴重な景観かも知れないという感想を持った。
 なんとも惜しいことだが、この「滑滝」の様にいつの間にか周囲が改変され、往時の面影が失われたケースは、まだまだあるに違いない。地域の再発見が進む今、せっかくの地域の「宝」を気付かないうちに損なうことなく、未来へ伝えることも大切な役割だろう。
 こうした、古にその名を知られた古蹟名勝を訪ね、それらを通じて、そこを訪れたであろう先人たちと時間や感動を共有することは、歴史と触れ合う上で大事な視点の一つに思える。
 「芸藩通志」には、まだまだ未「再発見」の「宝」が眠っている様だ。これからも機会を捉えて紹介したい。

文化財課学芸員 松田雅之/写真:現在の滑滝(一部)

古代食体験

2010.4.15

蘇1 先月(3月)開催したボランティアフェスティバルで、蘇(そ)をつくる体験と試食を行いました。蘇は、奈良・平安時代に食用や薬用、物納用として作られた乳製品のひとつです。記録によると、蘇は、牛乳を煮たり、発酵させたりしてつくっていたようです。今回は牛乳を固体になるまで煮つめて再現しました。来場者のみなさんの感想は、「チーズよりも塩気が少なくて美味しい」「抹茶を混ぜるとさらに美味しくなりそう」などと様々で、大好評でした。味は濃厚で美味しいので、ついつい沢山食べたくなってしまいますが、栄養価が高いので食べ過ぎには要注意ですね。

近多恵美/写真上:蘇をつくっている様子・下:完成した蘇蘇2

地底の道標

2010.4.13

新庄の宮の巨木 私たちは大抵、普段当たり前の様に接するものに疑問を持つことは少ない。例えば自然景観。火山活動や大規模造成の様な劇的変化でもない限り、自然は、ゆったり時を刻み続けているかの様に見える。郷土広島に繁る樹木も、広島の人にとって見慣れた光景である。そこには巨木と呼ぶ程の木も少なく、たまに見かけても、天然記念物に指定されていたり、地元の宝になっていたりする。
 樹木が天然記念物となるには、大きさとか、樹齢とかだけでなく、古くから保護されてきた神社の社叢などの様に、その地域本来の植生を留めていることも要素となっている。例えば、楠の巨木が目を引く西区の県天然記念物、新庄の宮の社叢は、太田川河口部の往時の森の姿を伝える唯一の存在である。
 しかし、なぜ、そうした樹木が点々としてしか残されていないのか。その大きな理由は、長い歳月の間に、人間が樹木を用材、薪炭を得るため伐採し続けたことにあるという。安芸国は古くから材木の産地として知られる程であり、江戸時代には広島藩で、伐採と再生の管理などを試みている。こうして、いつしか木々は変貌を遂げていったのだ。
 失われたもとの光景はとても想像つかない。しかし、私もつい最近まで、身近な木々にさして疑問を持たなかった。
 そうしたある日、私は島根県大田市の国天然記念物、三瓶小豆原埋没林を訪れた。地中から発掘された約四千年前の縄文時代の森である。三瓶山の噴火で発生した泥流などが、この森をパックして今日まで守ってきたのだった。むろん、木々は既にその生命を終えた残骸である。しかし、思わず私は立ち尽くした。これが、もしかするとごく普通の森だったのか?…ひしめき合ってそびえ立つ、天を衝く様な巨木たち。私の中の「当たり前」は消し飛び、大きな喪失感に襲われた。
 長い歳月の間には植生の変化もあったろう。しかし、それでもなお、人間による破壊でどれほどのものが失われたのか?
 はるかな過去から蘇った埋没林の巨大な木々は、私たち現代人にとって、はるかな未来への道標なのだ。その陰から、縄文人が子孫たちをきっと見守っているだろう。

文化財課学芸員 松田雅之/写真:県天然記念物 新庄の宮の社叢の巨木

ホームページをリニューアルしました。

2010.4.1

ひとこと写真文化財課学芸員の桾木(くのぎ)です。この度のホームページをリニューアルにあわせて、「学芸員のひとこと」のコーナーをつくりました。このコーナーでは学芸員が普段の仕事で感じたことや、日々のこぼれ話、お気入りの展示物、あまり知られていない豆知識、お気に入りの場所まで、様々なことを発信(つぶやき?)させていただきます。

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