学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

この埴輪は男子?女子?

2010.12.28

埴輪 先日、高校美術の教科書を見ていると、人物埴輪が載っていました。見慣れた埴輪ですが、そこには「埴輪男子胡坐像」とありました。男子!?さて、埴輪の性別は、どのように見分けるのでしょうか。
 これは、頭を見るとわかるという説があります。それによれば、帽子をかぶっているものが男性(丸い頭のように見えます)、髷(まげ)は女性を表現しています。また、人物埴輪は当時の様々な職業の人々を表しており、巫女・武人・農夫などはその代表例です。踊る人や琴を弾く人もありました。
 こうして見ると、埴輪を見る楽しみも広がりますね。さらに、作ってみたくなった方は、ものづくりワークシートをご覧ください。

近多恵美

みえる?みえない?

2010.11.24

弥生土器1 土器作りで小学校などに行くと、たまに「弥生土器には模様がないから縄文土器を作りたい」という声を聞いたりします。どうやら、縄文土器は縄目や火炎土器のイメージのように様々な模様やデザインがある土器、弥生土器は模様の無い土器というイメージがあるようです。たしかに縄文土器に比べて模様は少ないかもしれませんが、弥生土器にもたくさんの模様などが施されています。貝殻の縁を押しあてたもの、波のような模様、細い竹の切り口をおしあてたものや、木の板でなでた「刷毛目」などあげていくとたくさんあります。これらの中で私が図面弥生土器2を描くときに苦手なのが
「磨き(みがき)」という調整のあとです。土器の表面を刷毛や棒等でつるつるに磨いてあり、一見すると何もみえないのですが、光の角度を変えると、磨いた刷毛や棒のあとがびっしりと浮き上がってきます。下の写真には上から順に「波状文」・「竹管文」そして「磨き」が施されています。「磨き」、みえますか?

文化財課学芸員 桾木敬太/写真上:弥生土器の壺の破片・写真下:チョークで調整(磨き)を見えやすくした写真・下:実測図面)弥生土器トレース

トレース今昔

2010.10.8

パソコンでトレース 発掘調査の報告書には、竪穴住居跡などの遺構や土器や石器などの遺物の図面を掲載することになります。この掲載図面は、現地や遺物の測量などを行って作成した図面の線を印刷仕様にするためになぞるトレースという作業が行われています。漫画に詳しい人にはおなじみの作業ですね。この作業、文化財課では、昔はトレース専用のペンを使い、手描きで行っていました。鉛筆とは違い失敗がほとんど許されず、1ラインを息を詰めながら一定の速度で(速度が変わると線の太さに影響がでます)、一気に描いていくのです。何度も失敗してはため息をついたものですが、その分描き終えた時の充実感がありました。
 現在では、この作業はパソコン上で行っています。描画ソフトを使用し、図面の線をなぞっていくのです。パソコン上の作業ですから失敗しても、やり直しが可能で、大変便利になりました。しかしながら、パソコン上では実際よりも図面をかなり拡大して作業出来るため、微妙なラインの誤差が見えてしまい、実に目が疲れる作業になっています。にもかかわらず、印刷した時には、こだわったほどの違いが見えず、がっかりすることもあります。とはいえ、見えてしまうと気になるもので・・・
 アナログでもデジタルでもそれぞれの良さ悪さというものがあるものです。

文化財課学芸員 田村規充/写真:0.2mm以下の線も最大にするとこのくらいに!

今よみがえる戦国の武士

2010.9.21

井原俯瞰 16世紀末に着手された毛利氏による広島築城こそは、広島が現代の百万都市へと成長を遂げる一大エポックメーキング的出来事であった。この大事業の陰に、当主輝元ほか数多くの有名無名の人々の汗と努力があったろうことは想像に難くない。
 「広島」の名が資料上で初めて確認されるのは、天正17(1589)年のことである。記念すべきそのいくつかの資料の中に、輝元から井原小四郎元尚に宛てられた書状があった。ここで、元尚は「佐東廣嶋之堀普請」を命じられている。
 井原氏は三篠川沿いにある安佐北区井原を本拠として来た領主で、元尚は弓の使い手として武名を挙げたというエピソードの持ち主である。そんな元尚からは、武骨なつわものといったイメージが浮かぶ。
 その元尚が、合戦ではなく、広島築城という空前の大工事の一端を任されると知った時、何を思っただろうか?彼の心境は知る由もないが、私には、その武張った風貌を歪めて苦渋する彼の様子が想像されてならない。それを物語ってか、輝元から元尚には、早く工事にかかる様度々督促状が出された。
 動乱の世を毛利氏の一武将として駆け抜けた井原元尚は、関ヶ原での西軍の敗北を見ることなく、慶長3(1597)年頃世を去っている。
 現在当課では、当時「中郡」と呼ばれた三篠川流域の戦国時代の史跡をめぐるバスツアー「安芸の戦国再発見~三篠川流域の武士たちと毛利氏」開催を準備している。そこで、この地域ゆかりの戦国の武士たちが、時を越えて参加者に語りかけてくるだろう。

文化財課学芸員 松田雅之/写真:井原地区の景観

秋のはじまりはいつから?

2010.9.1

三ツ城古墳 暦の上では既に秋になっているのに、残暑がきびしく、本格的な秋の訪れが待ち遠しい毎日ですね。でもそんな中、文化財課では秋の催しの準備が着々と進んでいます。実は10月は、文化財課の主催する大きな催しが目白押しなんです!
  一泊二日の日程で自然の中でいろいろな古代体験をする『古代キャンプin三滝』、県内最大の古墳ほかをめぐる『バスツアー 安芸の古墳の変遷』、北広島町の巨樹と文化財をめぐる『バスツアー 樹は語る』、テレビでもおなじみの東京農業大学名誉教授 小泉武夫先生の講演会『食に知恵あり~日本の伝統的食樹は語る
文化に学ぶ~』、文化財団の施設で活躍しているボランティアさんによる『ボラン
ティアフェスティバル』などなど。すでに参加申し込みの受け付けがはじまっているものもあります。これを読んだら、今すぐイベント情報掲示板 をチェック!!

文化財課学芸員 荒川美緒/写真上:国史跡三ツ城古墳『バスツアー 安芸の古墳の変遷』・写真中:国天然記念物テングシデ『バスツアー 樹は語る』・写真下:小泉武夫講師 講演会『食に知恵あり』
仏画図録

「仏画」も見てみませんか?

2010.8.31

仏画図録 昨年巷をにぎわせた興福寺の阿修羅像など、ここ数年すっかり人気が定着した「仏像」ですが、「仏画」をご存知ですか?「聞いたことはあるけど、実際に見たことはあまり…」という方が多いのではないでしょうか?確かに、仏さまの姿を彫刻で表した「仏像」に比べ、絵画で表した「仏画」を目にする機会はそれほど多くありません。
 仏画はお堂や法要の本尊として、堂内の荘厳として、仏教が日本に伝わった飛鳥時代から描かれてきました。筆による描線や、鉱物・植物などを材料とした絵具による彩色といった表現は、時代によって趣が異なりますが、そこに共通するのは「美しさ」です。当時、仏像や仏画を「美しく作ること」はすなわち「功徳を積むこと」でした。つまり仏画の美しさとは、仏画にこめられた人々の祈りのひたむきさに他なりません。
 デリケートな素材故に普段はしまいこまれている仏画を見られるのは、ほとんどが博物館での展覧会です。展覧会には図録もありますし、他にも国立博物館などのホームページでは国宝や重要文化財に指定された仏画を見ることができます。中にはかなり細部まで拡大できるものもあります。時にはこれらの手段も活用しながら、仏画にこめられた人々の思いを感じてみてはいかがでしょう。

文化財課学芸員 中原望/写真:古書店で展覧会図録が手に入ることもあります。

出張事業

2010.8.20

古代体験 出張授業でよく小学校に行きます。私は一昨年まで中学校で教師をしていましたが、子どもたちとふれ合うことのできる出張授業は、教師時代を思い出させてくれる貴重な一時です。授業では弓矢や火おこし等の古代体験や、土器や埴輪作りを指導します。弓矢の体験では、なかなか的に当たらなかったり、弓の弦の張りが予想以上に強くて少ししか飛ばせなかったりします。そんな時は弓の引き方のコツを実演しながら教えていきます。たまにですが、強く引き過ぎて弦を切ったり弓そのものを折って壊したりしてしまうこともあります(汗)。ハプニングもありますが、本や教科書に書かれていることを学ぶだけでなく、実際に作り、体験することで当時の生活の様子を少しでも感じてもらえたらと思います。 元教師なので教えることには慣れていますが、間違いやいい加減な事は教えられないので、事前に自分で調べて勉強し、それを小学生にも分かりやすい言葉で説明します。子どもたちの表情を見る時がすごく緊張します。出張授業は教えることの難しさを改めて感じる場でもあります。

文化財課指導主事 平岡啓二/写真:古代体験(弓矢)の様子

見えない出土品

2010.7.22

石製帯飾 当課の所蔵品に、安佐南区長束西にあった権地古墓という平安時代初め頃のものと見られる墓から出土した、石製帯飾7点がある。サイズは最大幅3㎝強、最大厚5~7mmほどで、奈良時代末頃作られたものと推測されている。こうした飾り付きの帯は、当時の役人クラスが用いていた。県内でもこれほどまとまった数で出土した例はなく、広島市指定重要文化財となっている。
 「権地古墓」は旧祗園町域南部の尾根斜面、標高約36mにあった。旧祗園町一帯は条里制〔奈良時代頃から現れるとされる一辺6町(約654m)の正方形を大区画(里)とした土地区画方式〕の地割りが残るとされる。
 彼は、この地域が形づくられていった時代を生きていたのだろうか?おそらくこの地域の有力者だったという以外に、貴重な資料の主の生涯は、残念だが不明である。出土品からもそこまでは知ることはできない。
 想像でしかないが、権地古墓のあった辺りから見渡せば、もしかすると、この街並みのどこかにこの人物の記憶が引き継がれているのかも知れない、と思える。遺跡からは、時にそうした形のないものも感じることができる。

文化財課学芸員 松田雅之/写真:権地古墓出土の石製帯飾

       
2010.12.28
この埴輪は男子?女子?    
2010.11.24
みえる?みえない?    
2010.10.8
トレース今昔    
2010.9.21
今よみがえる戦国の武士    
2010.9.1
秋のはじまりはいつから?
2010.8.31
「仏画」も見てみませんか?
2010.8.20
出張授業
2010.7.22
見えない出土品
 

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