学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「晩秋の彩りin平和記念資料館調査現場」

2016.12.13

 12月も中盤となり、ついこの間まで30度近くあった暑い日が続いていたのにめっきり冬らしく寒くなってきました。秋らしい秋がほとんどなかった気がしますが、わずかにああ秋だなあと感じさせてくれるものに紅葉があります。 といっても紅葉狩りに行くような余裕はなく、もっぱら発掘調査現場からみた平和記念公園の紅葉ですが・・・。写真を撮影した12月はじめにはもう鮮やかさをなくしつつありますが、それでも発掘調査で排出する土砂を積み上げた高台から見渡す公園内の紅葉は、 鮮やかな色彩のコントラストを見せてくれ、土砂を捨てに行くたびに心を癒されるのでした。もうすぐ常緑樹の緑を残して寒々しいモノトーンの光景になっていくのはちょっと寂しいです。
 と思っていると、現場の中にもくっきりと彩りを見せているものがあるではないですか。各調査区から出た土は、それぞれ小さなダンプカーにのせて、先ほどの高台に運んでいきますが、その土は、それぞれの調査区の状況によって色や質など様々なものがあります。 たとえば、整地などに使った砂は白や黄色系、水路の堆積物などは青黒っぽく、火災などの跡の土は焼けた赤い色や炭が混じった黒い色、という感じです。均質な土もあれば、これでもかと瓦礫が混じったものもあります。高台の斜面に落とされたそれらの土が文字 どおり色々の縞模様を作っているのです。決して美しく癒される色彩ではありませんが、人間の営みの諸相を語りかけてくれているようです。

文化財課主任学芸員 大室謙二

紅葉 土
  写真左/平和記念公園の紅葉 写真右/各調査区から出た土の縞模様



「広島市心身障害者福祉センター文化祭にカープ選手がやってきました」

2016.12.12

 12月4日(日)に広島市東区光町にある広島市心身障害者福祉センターで文化祭が行われました。文化財課も体験コーナーで「縄文組みひも体験」を行い、たくさんの方に参加いただきました。ありがとうございました。
 体育室のパフォーマンス広場では、和太鼓やダンスや、コーラスなどの素晴らしい発表が行われ、多くの笑顔と拍手が沸きおこりました。
 13時15分から30分間は、「カープ選手との集い」が行われました。今年、来てくれたのは、広島東洋カープの藤井皓哉(こうや)投手(2014年ドラフト4位 おかやま山陽高)と中村亘佑(こうすけ)捕手(2009年育成ドラフト2位、2015年オフに支配下登録 横浜商大高)と「スライリー」です。集いでは、インタビューやゲーム、キャッチボール、質問コーナーなどがありました。観客の皆さんは大喜びでした。2人の選手はシャイな方々でしたが、スライリーは大暴れをしていました。
 カープファンの醍醐味は、若い選手がカープに入り、想像もつかないような厳しい練習を積み重ね(精神的なプレッシャーも相当あると思います。)、少しずつ頭角をあらわしていくところを見て応援するところではないでしょうか。来シーズンは2人の選手を是非マツダスタジアムで見たいと思います。
(カープが、若手を育てることよりも、FA選手が出ればとりあえず誰でもとっていく球団でなくてよかった。)

文化財課主任指導主事 河村直明

スライリー 会場 選手
  写真上/縄文組みひも体験ブース
  写真下左/スライリー登場 中/会場風景 右/質問で笑う藤井選手(左)と苦笑いをする中村選手(右)



「布を織る」

2016.10.20

 先日、ボランティア研修会で織機(しょっき)を使った布作りを行いました。
 布は糸がタテとヨコに組み合わさってできています。布作りは縄文時代から行われていましたが、当時の布はヨコ糸にタテ糸をひと目ごとにからませる編布(あんぎん)とよばれる技法で作られており、大変手間がかかりました。織機を使って効率よく布を織る技術が広く普及するのは弥生時代になってからです。
 織布(おりぬの)は綜絖(そうこう)という部品を使い、まずタテ糸の偶数本目を上、奇数本目を下に振り分け、その隙間にヨコ糸を通します。次に偶数本目を下、奇数本目を上に振り分け、その隙間にヨコ糸を通します。これを繰り返して布を織っていきます。
 研修会では、文化財課オリジナルの簡易織機を使い、麻ひもで10㎝角のコースターを作りました。単純な作業のくりかえしですが、ヨコ糸とヨコ糸の間隔やコースターの幅を一定にするのは案外難しく、上手く織るにはコツと経験が必要です。
 弥生時代の糸の素材は「大麻」や「カラムシ」など、主に麻類の植物繊維でした。茎から繊維を取り出し、撚りをかけて糸を作るのもまた大変な作業で、糸作りを含めると服を1着作るのに相当の労力と時間を要しました。きっと傷んでも補修をして大切に大切に着ていたのでしょうね。

文化財課学芸員 田原みちる

織機 布
  写真左/文化財課オリジナルの織機で布を織る様子(黄色の板が綜絖) 写真右/完成したコースター



「弥生土器はなぜ弥生? 弥生土器発見の地?に行きました」

2016.10.11

 先月、弥生土器の名前のもととなった東京都文京区弥生二丁目に行きました。発掘の地は、東京大学浅野キャンパス(工学部の一部、理学部の一部)にあります。
話は、明治17年(1884)にさかのぼります。当時、大学予備門の生徒3名が当時の本郷区向ヶ丘弥生町にあった貝塚を訪れ、その中の有坂氏(後の工学部教授)が、土器を発見しました。後に同類の土器を、その発見場所の弥生町という地名にちなんで弥生土器とよぶようになりました。
 浅野キャンパス北西角(言問通り沿い)に、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑(写真左)があります。なぜ、ゆかりなのでしょうか。実は、弥生土器の名称のもととなった標本(壺形土器・国重要文化財・東京大学総合研究博物館所蔵)の発見場所は正確には分かっていないのです。(※補足)

○「弥生」という地名はどうして?
 現在の東京大学の本郷キャンパスの北端・浅野キャンパス・弥生キャンパス(農学部)は、江戸時代は水戸藩中屋敷(駒込邸)でした。弥生という地名は、水戸家第9代藩主徳川斉昭が屋敷内に建てた碑文〔文政11年(1828)3月10日〕の「夜余秘」(弥生)からとられたものです。この石碑は浅野キャンパスに現存しています。この地域は、明治5年(1872)に町家ができ向ヶ丘弥生町と名付けられ、町名は昭和40年まで続きました。
○東京大学 浅野?キャンパス~芸州広島人ならピンとくる?
 明治20年(1887)にこの地(本郷区向ヶ丘弥生町)に移転して屋敷を構えたのが、広島藩主であった浅野家です。最後の殿様である浅野長勲様もこの地にお住まいになったことでしょう。浅野家は昭和16年(1941)に移転し、この地は東京大学が取得しました。
  「弥生土器と広島!」意外なところで繋がっていました。
                                 文化財課主任指導主事 河村直明

遺跡 朝顔
       「弥生二丁目遺跡」       浅野キャンパスの住居表示板 

※補足1
 明治17年(1884)に有坂氏たちが見つけた土器のあった遺跡は、その後「向ヶ丘貝塚」と呼ばれるようになりましたが、正確な位置は分からなくなってしまいました。
 昭和49年(1974)浅野キャンパスで小学生が土器や貝殻を見つけました。翌年、東京大学によって発掘調査が行なわれました。この遺跡は台地の東縁に位置する弥生時代後期の環濠集落跡で、溝の中に貝層が形成され、その傍らに5個体の弥生土器が見つかり、「弥生二丁目遺跡」と名付けられました。
 向ヶ丘貝塚は、数ヶ所の推測地があり、「弥生二丁目遺跡」をその一つとする見解もありますが、断定はできません。しかし、「弥生二丁目遺跡」は、近接した同時期の遺跡として、また旧観をしのばせる唯一の地点でもあり、東京都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴うきわめて重要な遺跡です。そのため、昭和51年(1976)6月に国指定史跡となりました。
※補足2
 明治17年に発見された弥生土器は、現在、静岡市立登呂博物館で開催中の、登呂遺跡出土品重要文化財指定記念特別展「弥生×登呂」で展示されています。(会期:平成28年9月17日~11月27日)

「変化朝顔大集合(歴博くらしの植物苑 千葉県佐倉市)」

2016.10.7

 9月はじめに千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館へ行ってきました。
 企画展「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」も大変興味深かったのですが、今回のもう一つの目的は、歴博くらしの植物苑の特別企画「伝統の朝顔」(変化朝顔)を見ることでした。平成24年度からの文化財課と変化朝顔とのかかわりは以前からご紹介していますので、ここでは省略します。くらしの植物苑の特別企画「伝統の朝顔」で撮影した写真を見てください。これ全部、朝顔なんです。
                                 くらしの植物苑 東屋
文化財課主任指導主事 河村直明

朝顔 朝顔 朝顔
朝顔 朝顔 朝顔
「くらしの植物苑」は、国立歴史民俗博物館が生活文化を支えてきた植物を系統的に植栽し、その理解をより深めることを目的として開設しています。くらしの植物苑(特別企画)季節の伝統植物「伝統の朝顔」展は、7月26日(火)~9月11日(日)まで開催されました。


「千田貞暁(せんださだあき)銅像」

2016.9.2

 広島電鉄市内電車の「県病院前」電停から北西方向に200mくらい進むと左手に公園があり、そこに大きな銅像が建っています。宇品港(現広島港)築港に尽力した千田貞暁の銅像です。私が小学生の頃、社会科の副読本にこの銅像の写真が掲載されており、実物が見たくて親に頼んで連れて行ってもらった記憶があります。
 明治13年(1880)に広島県令に就任した千田貞暁は、広島の発展のためには道路と港湾整備が必要と考え、宇品新開地の干拓と宇品築港を決断しました。5年3ヶ月に及ぶ苦難の末、明治22年(1889)に宇品港(現広島港)が完成しました。この銅像はその功績を称えるために大正4年(1915)に建てられたもので、右手には港の設計図を持ち広島市内を見渡しています。大きさは台座の高さを含めると約9m、銅像そのものの高さは2.5mです。絵葉書の写真は、銅像が建てられて間もない頃の写真と思われます。
 戦前に建立された銅像のほとんどは戦時中に供出されてしまいましたが、この銅像は現在も当時のままの姿で建っています。銅像の周辺には千田廟、宇品新開地記念碑(銘板は戦時中に供出されています)、正岡子規の句碑もあり、千田廟公園として整備されています。この公園では千田貞暁の命日にあたる4月23日に「千田翁遺徳顕彰祭」が行われています。

文化財課指導主事 牛黄蓍 豊

写真上:絵葉書「広島市宇品築港記念碑」(大正前期)
写真下:千田廟公園に建つ銅像



「変化アサガオ展示します♪」

2016.8.25

 平成24年度に文化財課と広島市植物公園による「江戸の園芸講座~変化朝顔~」という講座を実施し、その講座受講者の有志により変化朝顔の愛好会『広島あさがお研究会』が結成されました。平成26年度まで実施した講座が終了した後も、会は活発に活動し、変化朝顔の普及に努めています。これまでに、植物公園の「変化朝顔展」やこども文化科学館で開催される「青少年のための科学の祭典」広島大会、地域の公民館などに出展し、今年も秋に植物公園の「変化朝顔展」に出展します。
 「変化朝顔展」では、会員が育成した変化朝顔のほか、絵手紙や切り絵など、会員各自が制作した朝顔に関する作品も展示します。また、期間中は会員による解説も実施します。
 育てるのは簡単なようで奥が深い変化朝顔ですが、そんな“変化朝顔”や、『広島あさがお研究会』に興味のある方は、是非、植物公園の「変化朝顔展」へお越しください!
 変化朝顔にハマッてしまった会員の楽しい苦労話(?!)が聞けるかもしれません。

文化財課学芸員 寺田香織

【展示情報】
広島市植物公園「変化朝顔展」
期間:9月3日(土)から9月11日(日)まで
場所:広島市植物公園 展示温室(広島市佐伯区倉重3丁目495番地)
解説:期間中毎日9時~15時頃 会員による解説を実施します。
   9月4日(日)9時半~10時半 植物公園職員による解説を実施します。

【変化朝顔について】
変化朝顔は、珍しいもの好きだった江戸時代の人たちが発展させた園芸植物です。
糸のような葉、撫子のような花、八重咲の花など、一見アサガオに見えないような珍しいものがありますが、これらは全て遺伝子の突然変異によるものです。変異した株は種子が採れないことが多く、維持には遺伝学的な知識が必要です。(広島市植物公園資料より引用)
※詳細については、当ホームページ「イベント情報掲示板」(平成24~26年度)をご覧ください。

朝顔 朝顔 朝顔
  写真/牡丹咲のアサガオ(左)、撫子咲のアサガオ(中)、枝垂れタイプのアサガオ(右)



「石落としから石落とす?」

2016.8.10

 いわゆる「お城」をめぐっては、根拠のない俗説や誤解がまかり通っていることがよくあります。天守に殿様が住んでいた、などはよく知られた事例ですが、中にはそれなりに城郭に詳しい人でも勘違い(と私は思っています)している、ちょっと深刻なものもあります。それは「石落とし」です。
 写真は広島城天守のものですが、石落としは、このように天守や櫓、塀などの一部を外側にせり出させ、床を開口させている(できるようにしている)設備で、防御のための仕掛けのひとつです。類似の設備に、壁に空けられた穴、狭間(さま)がありますが、狭間からは眼下の敵を狙えないため、側面攻撃ができない場所では、石垣をよじ登ってくる敵を攻撃できない欠点があります。その死角をなくす役目を果たすのが石落としなのですが、その「使い方」として、よく「石などを落として敵を撃退した」と説明されるのがどうにも納得できないのです。
 そのような方法をとるなら、実際の戦闘になったときのために、相当量の石を常備しておかなくてはならないと思いますが、そんな事例や記録を見た事はありません。大体、重たい石を次々と落としていくよりは、鉄砲や弓矢、あるいは槍で攻撃したほうがはるかに効率的・効果的と思われます。石のほかにも熱湯や糞尿を浴びせかけるというものも聞いたことがあります。おそらく(史実かどうかはともかく)14世紀の楠木正成の籠城戦のエピソードが下敷きになっているのでしょう。さらには煮えたぎった糞尿を、というものもあり、そんなことをしたら、味方へのダメージのほうが大きいのではないかとさえ思えます。私の知る限り、実際の使用、すなわち実戦で使われた記録がないことが、そもそもの遠因でしょうが、名称に引きずられた説明だと思っています。もちろん、使用法の断言はできませんし、石などを落とそうと思えば落とせますが、出来ることと実際とは別問題です。文字どおり命がけの戦闘ですから、最も防御に適した方法は何か、という視点から説明するべきでしょう。

文化財課主任学芸員 大室謙二



「不気味なマスクマン」

2016.7.14

 発掘調査では鉄製品や青銅製品など金属でできたものが出土します。こうした金属製品は土の中にある間に水分と反応して錆びてしまいます。金属製品は土から取り出した瞬間から酸素に触れるのでさらに錆びてしまいます。これを抑えるために、持ち帰った金属製品は、第1の作業としてまわりについた土と錆びを取り、乾燥剤をいれてパッキングします。しかし、土と錆び取りは簡単にはすみません。錆びはまわりの土とくっついて、固い錆びた土となって製品のまわりに固まっています。そのため、ワイヤーブラシや電動工具(リューター)などを使って作業するのですが、このときに細かな粉塵が舞い上がるので防塵マスク装着をします。さらには金属製品は水が大敵なので水を使って洗うことができないため、ものによってはアルコールで洗浄します。このときに揮発したアルコールを吸い込んで酔っ払うのでガスマスクも装着して作業します。
 作業中は手が粉塵で茶色く染まったように汚れます。ですので、作業中に来客があってもマスクがすぐ取れずにそのまま出て行くことになり、来客者はこの部屋は体に悪いガスでもでているのかとギョッとされます。ある日他の職員が作業している姿を見て、「確かに不気味だ」と思いました。しかも話しかけるとマスクごしなのでモゴモゴ喋ってるんですよね(自分では気づかないです)。余談ですが、時々錆を削りすぎて失敗の叫び声があがるのですが、マスク
ごしなので「あー」でなく、くぐもった「まー」という声に聞こえます。

文化財課学芸員 桾木敬太
写真上:サビ落としの作業風景。左はガスマスク,右は防塵マスクをしています。
写真下:隙間についた泥やサビもリューターで丁寧に落としていきます。



「ぶらり旅行記(二言目)」

2016.7.1

 旅の舞台は京都に移ります。「一言目」はこちら
 京都でのお目当ては、今年の4月29日に開館したばかりの京都鉄道博物館。訪れたのが日曜日だったので、混雑を予想して開館30分前には到着したのですが、すでに長蛇の列。おそらく1000人以上は待っていたのではないでしょうか。印象的だったのは、大人と子供の比率で、ぱっと見10対1ぐらいで大人の圧勝。まさに大きなお友達のパラダイスです。でも皆さん、お気に入りの車両の写真は仲良く譲り合って撮りましょうね。
 展示の中心は、もちろん実物車両で、その数53両。約31,000㎡の広大な館内が狭く見えるほど圧倒的な迫力です。鉄道ファンでなくても、この博物館に半日もいれば立派な鉄男・鉄子に生まれ変わることでしょう。私は滞在2時間だったので、ぎりぎりセーフ。
  鉄道博物館は、京都駅から西に歩いて15分ほどで着く梅小路公園の中にあります。梅小路公園は芝生広場や庭園をはじめ、京都水族館※やレストラン等が併設された総面積13.7haの都市公園です。歴史的な建造物や街並みだけではない、新しい京都の顔になるのは間違いありませんね。京都に行かれる際には、ぜひ足を運んでみて下さい。1日楽しめますよ。

文化財課主任学芸員 荒川 正己



写真:
上/プロムナード(エントランス)の様子。朝から様々な年齢のお友達がいっぱい。緑とオレンジに塗られたクハ86が懐かしすぎ。
中/いわずと知れた500系。大勢のお友達が途切れた瞬間に取った奇跡のショット。やだカッコいい!
下/C62の動輪の大きさ(直径175cmだとか)に感動して思わず撮った写真。しかし全く伝わらないのが悔しい。

  
  ※京都水族館:京都市という内陸部にありながら、山から海まである京都府の自然を反映した魅力的な施設で
         した。 平成24年開館。開館2年半で驚異の500万人来館。

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