学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「さまよえる遺跡」

2016.6.23

 現在、昨年度実施した鳥越古墳の発掘調査の報告書を作成中です。報告書には周辺の遺跡分布地図を掲載するのですが、その時に活用するのが広島県や広島市が出している遺跡分布地図(最新のものは平成16年の広島県教育委員会、平成14年の広島市教育委員会のもの)です。これは、遺跡の分布調査を元に遺跡の位置を地図に落としたものです。分布地図は過去にも何度か作られており、それを基にして新しい分布地図には、最新の分布調査で得られたデータを付け加えていきます。長い年月の間に開発で消えた遺跡も数多く、さらに地名の改変で遺跡に付いている旧字名に馴染みがなくなったりします。また、過去には見つかっていない遺跡を確認できることもあります。その結果、さまよえる遺跡が誕生するのです。
 鳥越古墳の発掘調査報告書に掲載する分布地図を作成するために調べていたところ、大上古墳(おおうえこふん)の位置が、平成14年刊行の『広島市遺跡分布地図』では実際と異なっていること、また破壊されていない遺跡として紹介されていることに気づきました。昭和35年刊行の『新修廣島市史第七巻資料編その二』には、緑井大上町営住宅の建設中に箱形石棺や人骨が出土したとあります。現在、町営住宅の跡は更地になり、石棺は見当たらず、開発によって破壊されたはずの遺跡です。大上古墳の位置は緑井大上町営住宅の敷地で、これは昭和55年刊行の『佐東町史』の遺跡分布地図(図1)記載の位置です。平成14年刊行の『広島市遺跡分布地図』(図2)では赤丸11の位置として掲載されていますが、本来の大上古墳の位置を青い丸で落としてみるとかなり移動していることが分かります。これは、遺跡分布調査の際に、字「大上」で新たに発見した特徴が似ている古墳を本来の大上古墳と取り違えてしまったために起こったのでしょう。広島県が平成16年に刊行した『広島県遺跡地図Ⅹ(広島市)』の注記では『新修廣島市史』に記載されていたように「人骨」が出土したとされ、『広島市遺跡分布地図』の成果を基に本来の大上古墳と誤認したふしがあります。それにしてもと思い、文化庁が昭和57年に刊行した『全国遺跡地図 広島県』(図3 本来の位置を青い丸で示しています)を見てみると、大上古墳は丸1つ分くらい南にずれて記載されていました。さらに基本に使用しているのが70000分の1の地図で縮尺が小さすぎるため、図微妙なずれでも大きく位置が変わってしまいます。平成14年の分布地図はこの分布地図も参考にしているはずなので、このことも大きく南東に遺跡が移動したことの原因と考えられます。
 ともあれ、2つの「大上古墳」があることがわかりましたので、今回の報告書内の分布地図では新しいものに「大上(B)古墳」と仮称をつけることにしました。人知れず消滅する遺跡も多く、近年は山も荒れていますので踏査しても確認できない遺跡もあります。そうした条件下では資料の精査と現地踏査が重要なことを痛感しました。
                                 図1 『佐東町史』での位置


  文化財課主任学芸員 田村 規充
 
図 図
  図2 『広島市遺跡分布地図』での位置と        図3 『全国遺跡地図 広島県』での位置と
    本来の位置(青丸)                  本来の位置(青丸)
                               さすがに疑問を感じたのか、以前の職員が
                               鉛筆で囲って「?」を付けていますが、本
                               に直接、書かないでもらいたいものです。



「ぶらり旅行記(一言目)」

2016.6.16

  6月11日・12日に大阪と京都に出かけてきました。一番の目的は、会場大阪府立弥生文化博物館で6月19日まで開催されている企画展「鉄の弥生時代」。同博物館は、日本で唯一弥生時代を専門とした博物館で、毎回の企画展では、テーマにあわせ全国各地からセレクトされた考古資料が展示されます。今回の企画展では、広島市から梨ケ谷遺跡大町七九谷遺跡成岡A地点遺跡から出土した鉄器が展示されているのです。
 梨ケ谷遺跡、成岡A地点遺跡は私自身が調査を担当しました。苦労して調査した遺跡や、そこから出土した遺物は、どこか自分の子どものような感覚があります。全国規模の企画展に展示されるということは、言ってみれば子どもが全国大会に出場するようなもの。そりゃ、応援に会場行かなきゃいけません。
 展示はさすが弥生文化博物館です。うちの子達もしっかりお役目をはたしており、ひと安心です。
 ところで、直近の駅(JR信太山)から弥生文化博物館に向かう道すがら、発見したのが↓↓。マンホールまで弥生してるだなんて、和泉市、恐ろしいところ。


  文化財課主任学芸員 荒川 正己
 
蓋 拡大
  写真:上/企画展会場風景 中/展示された梨ケ谷遺跡・成岡A地点遺跡出土鉄器
     下左右/博物館近辺のマンホール。まるで青銅鏡です。



「シカの角」

2016.5.26

 先日、安佐動物公園の春まつりの恒例イベントで「鹿角ストラップづくり」をおこないました。シカの角を小さく輪切りにして穴を開けたものに、ビーズの飾りをつけてストラップにします。当日は天候も良く、たくさんの方にご参加いただきました。
 シカは、縄文時代にはイノシシと並んで主要な狩猟の対象となっており、身は食用、皮は衣類や袋、角や骨は道具づくりや儀礼に…と、全てが利用されていました。シカの角は、とても硬くて丈夫ですが、新しい角や水につけたものは加工しやすくなります。そのため、漁で使う釣り針やヤス(魚を突き刺して捕る道具)、アクセサリーなど、様々な道具の材料として使われました。縄文時代の遺跡から見つかる釣り針の多くが鹿角製ですが、新しい鹿の角は、匂いや光彩により魚がよく釣れるという話もあります。鹿角製の釣り針は、たまたま身近にあった材料を使っていただけなのか、それとも古代の人の経験に基づいた暮らしの知恵だったのでしょうか…?
 鹿角ストラップづくりは、他のイベントで実施することもありますので、興味のある方は是非体験してみてください。とっても簡単に出来ますよ!出来上がったストラップを見ながら、古代の人々の暮らしを想像してみるのも楽しいですね。


  文化財課学芸員 寺田香織
          
鹿 鹿1 鹿2
  写真/鹿角ストラップ見本(左)、シカの頭骨(中)、シカ(右)



「燈明杉(とうみょうすぎ)」

2016.5.17

 安佐北区可部の福王寺山(標高495.9m)の山頂付近燈明杉には、弘法大師によって開基されたと伝えられる福王寺があります。山門をくぐって石段を登ると3本の大きな杉の木が見えます。大人が数人かかってやっと抱えられるほどの大木で、これが広島市指定天然記念物の燈明杉です。かつては5本の杉が並んでいましたが、昭和57年(1982)に真ん中の杉が枯れて伐採されて4本になり、その後山門近くの杉も根元から約2.2mを残して伐採されています。
 この杉がいつごろ植えられたものか、なぜ燈明杉と呼ばれたのかは定かではありません。ただ、江戸時代に地誌として編纂された『芸藩通志』には「燈明杉」の記述が見られることから、すでにその時代には巨樹がそびえる風景が知られていたと思われます。いずれにしても樹齢は数百年に及ぶものと考えられ、今日まで落雷や風雪など幾多の困難を耐えぬいてきた杉の木の姿を眺めると、底知れぬ生命力と歴史を感じさせてくれます。
 福王寺山は登山道が整備されたハイキングコースとなっており、途中までは車道も通じています。自然散策と適度な運動をかねて訪れるのにおすすめの場所です。


  文化財課指導主事 牛黄蓍 豊
 
絵葉書 現況
  写真:上/燈明杉
     左下/絵葉書「安芸国可部福王寺 鐘楼 客殿」(大正後期~昭和初期) 右下/現況写真



「なぜこの向きなのか」

2016.4.28

 この4月1日付で広島城から異動してまいりました。20余年前、就職して初めて配属されたのがこの文化財課で、2度目の勤務となります。とはいえ、ここを離れてから20年近くたっているので、新人みたいなものですが。
 さて、以前文化財課にいた5年間は、主に広島城の発掘調査に携わっていて、広島城で展示などを行っていた9年間を合わせると、15年近くは広島城に関わってきたことになります。その中で一つ、大きな疑問が生じてきました。それは広島城や広島の町の「向き」に関することです。
 写真1を見てください。みなさんならどの方向から撮った写真と伝えますか?広島城のことをちょっと知っている方なら、「南東から」と即答するでしょう。多くの人は広島の中心部の地図をイメージするときに、東西南北を軸線としたほぼ長方形の広島城と碁盤目状の町とを思い浮かべるでしょう。その意味でこの答えは正しいし、伝わりやすいのですが、イメージ上の北と思っている方向は、現実にはかなり(20度弱)東に振っています。ということで正解は「ほぼ真南」となるのですが、では記念写真でおなじみの写真2は何といえばいいでしょう。「南からやや西に振った」などと厳密な方角を書くと、今度は分かりにくくなる恐れが出てきます。
 仕事柄、これまで広島城に関係する文章を書いたり、お話をしたりする機会も多く、写真も当然紹介するのですが、そのたびにこの方角問題が頭を悩ませてきたのです。数枚程度の紹介なら適当に済ませられるのですが、数が増えてくると、混乱や矛盾が生じてくることがあります。どうにも中途半端な角度なのです。きちんと東西南北でつくってくれていれば、あるいはもう20度程度振っていればまだいいのに、などと思うこともよくあります。
 ということで必然的に生まれてきた疑問が「なぜこの向きなのか」ということなのです。広島城の築城と城下の建設にあたっては、必ず何らかの設計原理のようなものがあったはずです。この軸方向はどのように決定されたのか、あれこれ考えてみるのですが、空想の域を出ません。一緒に考えてみませんか。


  文化財課 主任学芸員 大室謙二
 
城1 城2
             写真1                写真2



「今年も春がやってきました。」

2016.4.6

 戦前、広島市内には桜の名所が2か所ありました。一つは長寿園今も有名な比治山公園です。もう一つは、白島の本川左岸河川敷にあった長寿園です。
 長寿園を開いたのは、薪炭を商っていた村上長次郎で、明治43年(1910)に桜の苗木を植樹し、大正5年(1916)に長寿園を一般開放しました。やがて対岸にも桜が植えられ、昭和に入ると本川をはさんで両岸に桜が咲き誇るようになりました。
 戦後しばらくは広島の花見名所として長寿園は残っていましたが、桜の樹勢も弱まり、やがて高層アパート群が建設されることとなりその姿を失いました。長寿園の碑が上野学園ホールの西側川べりにあります。
 現在は土手沿いに桜が植えられ、春には往時の姿を偲ばせています。


  文化財課主任指導主事 河村直明
 
碑 桜
  写真:上/4月2日 広島での桜満開宣言の日の長寿園 左下/長寿園の碑 右下/満開の桜



「あなたの知らない(現場の)世界2-ビッグ自撮り棒登場-」

2016.3.16

 現在,平和記念資料館の建物の下で発掘調査を行っています。発掘調査で検出した様々な遺構は,図面による記録・文字による記録・写真による記録を行います。このうち写真による記録は,出てきた遺構やものを近くから様々な角度で撮影すると共に,全体の状況を把握するため,高所から俯瞰撮影を行います。いつもは高さ6m程度の足場を立てて,その上から俯瞰撮影を行いますが,今回の調査地は頭上に建物があるなど,足場を立てることができない環境のため,何か代わる方法をと考え登場したのが,とても長~い一脚です。
 全長約6mの長さのカーボン製のポールの先にカメラをとりつけ,カメラとタブレットを無線LANでつなぎ,手元で画像を見ながらで撮影ができます。このポールを見たある職員が「ビッグ自撮り棒」と名付けてくれました。しかし6mの棒の先に約2kgのフルサイズ一眼レフカメラがついているとかなり重く,自撮り棒のように水平にもつことはほぼ不可能です。撮影時にポールを立てるときはカメラを揺らさないようにするため,2人がかりでポールを支え,「揺らすなー」と叫びながら地につけることなど決して許されないその姿は,もはや自撮り棒というよりは応援団旗のような気分です。


  文化財課学芸員 桾木敬太
 
撮影” widt= 自撮り
  写真/ロングポールを使った遺構撮影風景。(左)
     頑張って自撮りしてみました。斜めにするには男性3人がかりです。(右)



「写真撮影」

2016.2.29

 最近、山城の写真を撮りに行く機会が何度かありましたが、恵下山城なかなか思うような写真が撮れません。事前に遺跡周辺の地図を見て撮影ポイントの見当をつけ、こんな写真を撮りたいというイメージを膨らませて現地に行きます。いざ現地へ到着してみると、生い茂る樹木や電線が邪魔になったり、大きな建物に視界をさえぎられたりして予想外の展開になることもよくあります。
 しかし、ここであきらめるわけにはいかないので、周囲の地形を見渡しながら撮影できそうなポイントを探して歩き回ることになります。自分にとってはこれが結構いい運動になるので健康のためにも良いのですが、カメラを持ったおじさんが一人でウロウロしていると不審者に間違われないかと心配したりもします。
 ある日、同僚が自身で撮影した建築物の写真を見せてくれました。それはパンフレットにしてもいいのではと思えるくらいの素晴らしい出来栄えでした。話を聞けばきれいな青空が広がっている日を逃さず、建物によく陽が当たる時間を考え、さらに背景に他の建物が写り込まない角度を狙って撮影しているとのこと。やはりこうした条件が重なったときによい写真が撮れるのでしょう。
 私も根気強く写真を撮り続けていれば、いつかはそのような機会にめぐりあえるのでしょうか。

  文化財課指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真:恵下山城跡(安佐北区)



「おみくじ」

2016.1.29

 先日、初詣に行ってきました。1月上旬で天候も良かったので、沢山の人がお参りをしていました。お参りを済ませて境内を見てみると、破魔矢やお守りなどと並んでおみくじがあったのでひいてみました。初詣に行くと、新年の吉凶を占うためにおみくじをひくという方も多いのではないでしょうか?
 おみくじは、お御籤などとも記されますが、「くじ」という言葉が日本で初めて文献に登場するのは平安時代のことだそうです。その後、鎌倉~室町時代頃になると「御鬮(みくじ・おくじ)」という言葉が、神仏の意思や霊威を意識して寺社等でくじをひくこととして、他の余興等のくじと区別して記されるようになりました。この頃のくじ(御鬮)は、主に自分で用意したものを神前で選び取る形式だったようで、天皇や将軍の後継者を決める際などにくじ(御鬮)が用いられたという記録もあります。
 江戸時代になると、一・二・三などと書いた棒を箱に入れておき選び取るようおみくじな既成の道具を使用することが一般的になりました。おみくじの内容も、漢詩で占うタイプや和歌等による歌占いのタイプなど様々な種類が流行したようです。吉凶の区分が示されたり、願望や婚姻、売買、疾病、変宅などといった細かい内訳の項目が記されたものもありました。中でも、元三大師の観音籤という漢詩のおみくじが有名で、「みくじ本」と呼ばれる、詩の内容を解説する本も多数出版されています。江戸時代の人々もおみくじの結果に一喜一憂していたようですね。
 現在でも、寺社によっては独自のおみくじがあるようなので、珍しいおみくじがあったら是非ひいてみたいと思います。

                                        写真/結ばれたおみくじ
  文化財課学芸員 寺田香織



「あけましておめでとうございます」

2016.1.7

 鯉

旧年中は多くの方々にご支援・ご協力いただき、
誠にありがとうございました。
本年も文化財課をよろしくお願いします


 写真の錦鯉は「丹頂紅白」(銀鱗丹頂紅白)という種類です。 丹頂鶴のように頭だけに1つ赤い丸が付いています。まるで 初日の出のようで、おめでたい錦鯉です。赤い色がしっかりと出ており、丸がより円に近いものが好まれます。
鯉  
 この「丹頂紅白」は、広島では違った名前でも呼ばれます。
 なんと「赤ヘル!」です。
 いよいよ2016年のシーズンが始まります。
 サッカーの「サンフレッチェ広島」のように、男女駅伝の「世羅高校」のように、バレーボールの「JTサンダース」のように、広島東洋カープもファンにさらなる感動を与えてください。
 今年こそ、たのむで。
(マエケン、アメリカでも頑張ってね。)

 文化財課 主任指導主事 河村直明
 


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