学芸員が普段の仕事の中で感じたことや、日々のこぼれ話、お気に入りの展示物などを紹介します。

「筆頭資料」

2021.5.20

瓶全体 今回はレストハウス地点発掘調査でみつかった遺物の中から、写真の資料を紹介します。
 とても小さなガラス瓶で高さは4㎝足らず。底から肩までは型を使ってかっちりと作られていますが、肩から上の部分はゆがみもそのままの自然な仕上げとなっています。このため全体としてはとてもカワイイ感じを醸しています。

 このガラス瓶、側面に「官許 食料紅」の文字が入っていたため、食紅瓶だということが分かっています。(横書きで右から「官許」。「官許」の文字の間に縦書きで「食料紅」とエンボスされています。)
瓶拓本 我が国では、明治30年代に有害な着色料を指定して飲食物への使用が禁止されるようになります。このときは「禁止」はあっても「許可」の仕組みはありませんでした。明治40年代になって、一定の手続きを経て使用を「許可」する仕組みも加わりました。この食紅瓶の「官許」の文字が、正真正銘「許可」を得て用いられたのだとしたら、明治40年代以降の製品ということになります。

 瓶アップこのガラス瓶は、以前紹介したおはじきと同様にトイレの便槽から見つかりました。出土場所はさておき、表面には銀化がみられキレイな虹色が現れます。瓶の外側は少しマットな仕上げとなっているのですが、光線の具合によっては外側だけでなく瓶の内側からの虹色もあわせてみることができます。
 調査担当者としては、レストハウス地点発掘調査のキレイ・カワイイ系筆頭資料だと思っています。

文化財課主任学芸員 荒川美緒 / 写真上/レストハウス地点発掘調査でみつかった食紅瓶  写真中/食紅瓶側面の拓本(部分)
写真下/食紅瓶の表面に現れた虹色

「ボランティア研修会」

2021.4.27

火おこし ボランティア『ひろしま歴史探検隊』の研修会を、4月7日・14日の2週にわたって行いました。研修内容の「古代体験(弓矢・火起こし・石器・古代服)」も「はにわ作り」も、主に学校からの依頼を受けて行う出張事業で扱う内容です。小学生が挑戦してできるものであるので、さほど難しいものではありません。が、だからと言って誰でも直ぐにできるものでもありません。うまくやるには、見て分かることだけではなく、ちょっとした「こつ」を必要とします。
 うまくいかないと悩み、考え、思いついたやり方を試してみる。その一連の過程を経て困難を乗り越えた時に、初めてスキルは上がります。出張事業等において、困難に直面している方をお見かけした時は、まさにそのチャンスを迎える直前の大切な場面。気持ちを楽にして向き合っていただきたいものですね。「はるか昔の人たちも、同じように悩んだのかもしれませんね。」と、先人の苦労に思いをはせつつ、ご参加いただくみなさまと一緒に「こつ」を探っていく至福の時間を、たくさん共有できるとうれしいですね。

文化財課指導主事 福島 忠則 / 写真:火起こしは、白煙が上がっても回転を緩めないように…

「日本のワイン」

2021.3.17

ワイナリー この1年は新型コロナウイルスの影響でなかなか外出できませんでしたが、久しぶりに少し足を延ばして、三次ワイナリーに行ってきました。 三次ワイナリーは、広島県一のブドウの産地である三次でワイン造りをしており、施設内には、製造工場やワインの販売所があります。
 日本にワインが伝来したのは、15世紀~16世紀頃で、キリスト教の宣教師や貿易商人により、西欧から持ち込まれ、各地へ広まっていきました。
 日本で本格的にワイン生産が行われるようになったのは、積極的に西洋の文化を取り入れるようになった明治時代以降のこと。明治3(1870)年頃に山梨県甲府市で山田宥教(ひろのり)と葡萄三説詫間憲久(のりひさ)が共同でワインの醸造をはじめたのが、日本のワイン造りのはじまりと言われています。
 明治10(1877)年には、山梨県八代郡祝村(現甲州市勝沼町)に大日本山梨葡萄会社が設立されます。この会社から高野正誠(まさなり)と土屋龍憲(りゅうけん)という二人の若者がフランスに派遣され、帰国後、祝村出身の宮崎光太郎とともに国産ワインの醸造に力を注ぎました。

 こうして山梨から始まった日本のワイン造りですが、今では国内で栽培されたブドウを100%使用して醸造された「日本ワイン」が全国で作られています。広島でも三次ワイナリーで、三次産ブドウを100%使用したワインが製造されています。


文化財課学芸員 日原絵理 / 写真上:三次ワイナリー 写真下:高野正誠著『葡萄三説』。ブドウの栽培方法や葡萄酒の醸造について述べてあります。(国立国会図書館所蔵。国立国会図書館デジタルライブラリー(https://dl.ndl.go.jp/)から閲覧可能。)

「みそ地蔵」

2021.2.25

 東区光町の文化財課から1kmほど東に、みそ地蔵のある才蔵寺があります。
 この寺には、関ヶ原の戦い後、広島城主となった福島正則に付いて広島に来た家臣の可児才蔵が祀(まつ)られています。江戸時代に編纂された『芸藩通志』には、才蔵は慶長18年(1613)に亡くなり、彼の遺言により彼の山荘のあった才蔵嶺(さいぞうたを ※たお=峠)に葬られたと書かれています。西国街道が矢賀の岩鼻の南端をまわるルートになる以前は、才蔵峠(=矢賀峠)を通るルートでした。
 才蔵峠のすぐ脇に位置する才蔵寺には彼の供養塔があり、甲冑を着た才蔵像も設置されています。この才蔵寺の境内にあるのが、みそ地蔵です。このお地蔵さまに味噌を添えて祈願すると願い事がかなうと言われています。なぜ、才蔵と味噌が結び付くかは諸説ありますが、味噌が才蔵の好物であったとか、人々に栄養価の高い味噌づくりを教え、貧しい人には味噌を配っていたとか言われています。味噌を媒介にして、知将でもあった才蔵にあやかりたいとの思いもあるのでしょう。
 広島出身で、大正時代に海軍大臣や内閣総理大臣を歴任した加藤友三郎も、海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)の受験の前には、才蔵寺で合格祈願をしたと言われています。

みそ地蔵の傍らには、祈願の仕方として次のとおり書かれていました。

一.祈願札にお願いごと、名まえ 年令(かぞえどし 今の年令に一つたす)書いてセロテープでみそに貼る
二. みそ地蔵さまの頭の上にのせて手をあわせて サムハラ サムハラ サムハラと唱える
三.次にそのみそを自分の頭にのせて手をあわせて サムハラ サムハラ サムハラと三回唱えてお願いをする
四. 台の上に供えて終りです

祈願札と袋入りのみそは、お寺で売っています。

 みそが脳みそ=知恵にも通ずるのでしょうね、今のシーズンは受験の合格祈願が多いようです。文化財課に来られることなどあれば、ちょっと足を延ばしてみてはいかがでしょうか?

文化財課主幹学芸員 秋政久裕 / 写真左:可児才蔵像 写真右:みそ地蔵

みそ地蔵可児才蔵

「広島市内初の公園」

2021.2.12

饒津 明治7年(1874)、饒津(にぎつ)神社境内を中心とする約6,600余坪が、県から「饒津公園」として指定され、広島市内初の公園となりました。饒津神社の東にある明星院や鶴羽根神社も公園内に位置していました。右の絵葉書は、昭和初期の公園内の風景で、多くの花見客でにぎわう様子がうかがえます。この公園は、二葉山のふもとに位置することから「二葉公園」とも呼ばれました。
 明治38年(1905)発行の『廣島みやげ』には、「二葉山麓(ろく)にあり、依て以て名づく、明治七年九月拓きて公園となす、地は二葉山の翠(みどり)を負い、前は神田川の清流に臨みて幾多の老樹交互参差として、足一たび此(ここ)に容るれば、神気自ら爽然たるものあり、況(いわ)んや饒津神社を始め由緒ある祠廟(しびょう)の多くは此(この)公園にあるに於(おい)てをや、四季の花とりどりなる中にも、初夏の藤、中秋の萩、最も観賞するに堪へたり、<後略>」と紹介されています。
 また、大正2年(1913)発行の『廣島案内記』にも、「<前略>古松老杉鬱(うつ)然として繁茂し、旗亭所々に散在して客を呼ぶ声絶えず、園内梅あり桜あり藤あり、<後略>」との記述が見られ、四季折々の花が楽しめる市民の憩いの場としてにぎわっていた様子がうかがえます。
 現在、公園があった付近は、由緒ある神社・仏閣・史跡などをめぐる「二葉の里歴史の散歩道」のルートとなっており、貴重な文化財の見学に多くの人が訪れています。

文化財課主任指導主事 牛黄蓍 豊 / 写真:絵葉書「廣島饒津神社境内櫻花」

「江戸時代のイベント」

2021.1.13

左義長図 江戸時代の年中行事を調べている時に、ある行事に目が留まりました。「左義長(さぎちょう)」という行事で、私たちは「とんど」と言った方がなじみ深いかもしれませんね。 挿絵を見ると、大きな「山(山車)」の周りに鉢巻きを巻いた人達がひしめき合い、川沿いの沿道も多くの見物客でにぎわっている様子が描かれています。祭ばやしが聞こえてきそうな人々の様子に心がわくわくしてきます。
 さて、みなさんご存じかと思いますが、「とんど」は、旧暦1月14日か15日に行われる小正月の行事の一つで、現在では新暦1月なかばに行われることが多くなっています。この資料は福山城下の「左義長」の様子を描いたもので、松の内が明けると子ども達がしめ縄や門松を集めて回ります。 その後、「山」という大きな竹4本を組んで縄で固定したものに、集めたしめ縄などを巻きつけ、上部に竹や、わらで作った鳥獣や魚、あるいはその年に思い付いた品を派手に装飾します。飾りができあがったら、2日かけてはやしながら市中を巡行し、最後は火をかけて燃やします。 その間、小餅を竹に挟み、その火で焼いて食べました。福山城下の「左義長」は町ごとに「山」を作るため、30を超える「山」が城内を回る一大イベントでした。なお、この行事は広島城下でも行われており、集めたしめ縄や門松は川土手で燃やしていたようです。
 最近では、少子化や野焼きの禁止などの影響により、ここまで大きな「山(山車)」を見る機会はなくなってしまいました。時代の変化とともに風習が変わっていくのは、やむを得ないことと思いますが、コロナ禍で多くの年中行事が見合わせられる今のご時世、季節感を感じられる行事があることの大切さを改めて感じた資料でした。

文化財課学芸員 高土尚子 / 写真:『御問状答書 冬 福山左義長図』(画像提供:国立公文書館)

「幻の戒厳令」

2021.1.7

 4月に文化財課に着任して以来、窓から見える二葉山を見ながら、広島の戒厳令について思いを馳せることがあります。
 戒厳令とは、明治15年(1882)に布告され昭和22年(1947)に廃止された法令で、非常事態に際し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍の指揮下に置くことができるようにするものです。
 日本最初の戒厳令は、明治27年(1894)の日清戦争時に、臨戦地境戒厳として広島市宇品地区に出されました。その後、緊急時の勅令戒厳が、日比谷焼討事件、関東大震災、二・二六事件の際に公布されています。
 日本における戒厳令の最初は広島市ですが、実は最後の戒厳令も、昭和20年(1945)8月6日の原爆投下時の広島市に出た可能性があります。
 『広島県史』(注1)には「六日午後二時ごろ、中国地方総監府の副総監は、二葉山の防空壕に待避した第二総軍司令部を訪れ、総監の死亡、県庁・市役所・警察機関の全滅を報告、事態収拾の軍への委任と罹災者の救援を要請した。これをうけた第二総軍は、独断で市内に戒厳令を施くことを決し、すでに救援活動の指揮をとっていた船舶司令官を広島警備担任司令官に任命した。」とあります。(注2)
 この「戒厳令を施くことを決し」との記載は、昭和33年(1958)2月26日に開催された「原爆補備調査会議」における岡崎清三郎氏のメモに基づくものです。岡崎氏は、原爆投下時に第二総軍の参謀長でした。(注3)
 第二総軍とは、昭和20年(1945)4月に本土決戦で日本が分断されても戦えるように大きな権限を与えた組織で、大本営に直属し、鈴鹿山脈で日本を2分し、東を第一総軍、西を第二総軍が担任しました。それぞれの地域にいる陸軍部隊(航空部隊除く)は、すべて総軍が取り仕切ることになります。
 第二総軍の司令部は広島市の二葉の里(騎兵第五連隊本部跡)に置かれ、背後の二葉山には非常の際には戦闘指揮所の役目も持つことができる横穴(防空壕)が掘られていました。
 戒厳令の条文には、敵の包囲や攻撃を受けている場合、現地の司令官は石碑戒厳(合囲地境戒厳)を宣告できるとの記載があります。広島市の場合、まさに敵の攻撃を受けた地域であり、第二総軍司令官畑俊六大将が広島市を戒厳下に置くことを命令しても法的には問題がありません。第二総軍司令官より、広島警備担任司令官に任命された宇品の陸軍船舶司令官佐伯文郎中将は、広島警備担任船舶司令官として警備命令(広警船作命)を出し、被爆直後は陸軍が中心となり戦災復旧を行っています。
 しかし、被爆直後の混乱の中、警備命令以外の明確な資料(文書)はほとんど残っておらず、歴史の中に埋もれてしまい、昭和20年(1945)に広島に戒厳が宣告されたと語られることはありません。防衛省防衛研究所に保管してある戦後の畑俊六氏・佐伯文郎氏の手記にも、独断の発令を懸念してか戒厳という記載は見られませんでした。
 まさに幻の戒厳令です。

注1 『広島県史 近代2』広島県 P1052
注2 『広島原爆戦災誌 第一巻』広島市役所 P204 ここでは8月7日のこととして記載されており、戒厳という言葉は出てこない。しかし、第二総軍司令官が広島県知事・広島市長・在広陸海軍諸部隊を区処し、その権限を陸軍船舶司令官に委譲したと書かれており、戒厳の形態であったと思われる。
注3 安藤福平「原爆投下直後の在広陸軍部隊公文書『船舶司令部作命綴』と『第五十九作命甲綴』」『広島県立文書館紀要』第13号 P230



文化財主幹学芸員 秋政久裕 / 写真:第二総軍司令部の置かれた騎兵第五連隊跡の石碑(広島市東区二葉の里)

「さよならMOUDON」

2020.12.9

台座 とうとうこの日が来てしまいました。
 私の過去記事(2019.2.28「そこにあるからこそのモニュメント」、2020.1.8「小さなプレート」)で2回ふれた「HIROSHIMA MOUDON」が撤去されました。その日私は外勤だったのですが、事務所への帰途すぐそばを通りかかったところ、MOUDON は姿を消し、台座だけが残る状態に。数日後にはその台座も、周辺の小さな緑地と広島修道院の小さなプレートも。 もと代々木ゼミナールの建物は、新しい用途で使われることと建物なったのか、あるいは取り壊されることとなったのか、ここのところ工事関係の人々の出入りが続いています。

 私が日々の業務でかかわる埋蔵文化財は、土の中に埋まっていても開発などで失われていきます。ましてや地上に存在するものは、なおさら失われやすいのだということを、改めて思い知らされました。

 「そこにあるからこそのモニュメント」は、モニュメントもうそこにはありません。この場所がどんな場所であったのか、かつてこの場所に集った人々の想いや願い、こころざしは、記憶の中に残るのみとなりました。


文化財主任学芸員 荒川美緒 / 写真:いずれも東区若草町で撮影

「発掘調査と雨」

2020.11.2

 雨の日は発掘調査が休みになりますが、雨天前後の準備や後片付けも大変です。地面が汚れて掃除がやり直しになることもあれば、遺構が崩れてしまうこともあるので、雨の予報が出ると遺構を木材等で補強し、調査範囲の大部分をブルーシートで覆って土のうで固定して、水が漏れたり溜まったりしないよう養生します。作業員さんはブルーシートの下に水が入らないよう重ね順を工夫されていて、大変勉強になります。台風の時は、土のうを多く積んだりテントを畳んだりしてより念入りに準備をします。
 雨がやむとシートを外して作業の続きを行いますが、どうしても水の溜まったブルーシートは重く簡単には動かないので、ポンプと柄杓を使って水をくみ上げたりすくったりして取り除いていきます。ブルーシートやぬかるみの上は滑りやすく、作業中に水が地面に流れてしまうことも水溜りあるので気が抜けません。
  10月22日の雨では、雨量が多く遺跡全体が湿地のようになりました。写真は大きな水溜りの水をポンプでくみ出している様子で、1日中稼働させてようやく水位が下がったところです。写真には写っていませんが、トレンチにかけたブルーシートには数日経っても水が残っており、魚の養殖場のようになっています。

文化財課主事 兼森帆乃加 / 写真:巨大な水溜り

「身近にある遺跡」

2020.10.5

案内板 文化財課がある東区においても、多くの遺跡が確認されています。今回紹介するのは、東区上温品にある畳谷遺跡です。この遺跡は、県立安芸高等学校建設に伴い、昭和48年(1973)に発掘調査が行われました。調査が進むにつれ弥生時代から古墳時代にかけての一大集落跡の存在が明らかとなり、保存対策が検討されました。その結果、掘削予定の尾根の一部を現状で残し、校舎建設について設計変更が行われることになりました。
 遺跡は高等学校校舎の西側、標高約100~110mの尾根線上に位置しています。発掘調査の結果、住居跡15軒、土坑20基、壺棺墓1基、貝塚3か所等が検出され、現況弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて営まれた集落跡であることが明らかとなりました。 遺跡は東側・中央・西側の3群に大別されますが、このうち東側(住居跡4軒、土坑9基、壺棺墓1基、貝塚1か所)については、昭和49年(1974)4月25日に「畳谷弥生遺跡群」の名称で広島県史跡に指定され、公開されています。
 発掘調査時には尾根上から南方に広島湾を一望できたようですが、現在はかなり樹木が生い茂り、眺望は利きません。住居跡等は見学可能ですが、史跡は県立安芸高等学校の敷地内にあるため、見学の際は事前に連絡してお出かけください。

文化財課主任指導主事 牛黄蓍 豊
写真上:案内板付近の様子 / 写真下:畳谷遺跡(印部分)付近の現況写真
【参考文献】『広島県文化財調査報告 第14集』 1983年 広島県教育委員会

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